ももちゃんの一分間説教



今週の一句
鼻先を 巡る季節の 金木犀

―もとゐ―


 2016年10月2日(日)
 年間第27主日

 ルカによる福音書17章5節-10節

17,5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17,6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17,7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17,8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17,9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17,10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 イエスの生涯からは奇跡を見ることはない。福音書の奇跡物語りは文学様式の「聖者伝説」で書かれているので考慮しない。むしろ、十字架刑死のように神的ではなく当たりまえの人間でしかない。無論、並外れた知恵、洞察力、行動には魅了される。故に、今日の「信仰を増して奇跡を行いたい」という弟子の要望にはイエスは返事に窮したことだろう。「からし種一粒の信仰」とはあるかないか

 分からないのが「信仰」と答えた。イエスのように、こつこつと神の指針に真摯に向き合い、従うなら闇に光りが指しやがては昼のようになる、不断の微小の行動の積み重ねを「信仰」と呼ぶ、と教えられたのだ。 
今週の一句
秋雨に 遅き種まき 発芽なり

―もとゐ―


 2016年10月9日(日)
 年間第28主日

 ルカによる福音書17章11節-19節

17,11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17,12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17,13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17,14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17,15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17,16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17,17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17,18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17,19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 一般に、宗教は御利益宗教と言われ、人は神々に五穀豊穣、無病息災家内安全を祈り求める。人と神の関係は、人からの一方的要求に神を従わせる。しかも、人は神へ無限の要求をする。例えば、不死や全世界を手に入れるとか。しかも、安易に、僅かなお賽銭で、神を従わせようとする。さらに、願い叶わなければ、他所の神へと鞍替えする。全くの、ご都合主義だ。

 さて、旧約聖書では神と人との関係は、一方的ではない。双方的だ。さらに、人の幸いは神のことば、生き方の指針を守って行うことによって与えられる、と考えている。イエスはそれを生きた人であった。重い皮膚病からの治癒に神を賛美しに戻ってきたサマリア人は、神との相互関係に生きていたのだ 
今週の一句
月明かし 背中ひと押し 夜の道

―もとゐ―


 2016年10月16日(日)
 年間第29主日

 ルカによる福音書18章1節-8節

18,1 〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18,2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18,3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18,4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18,5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18,6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18,7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18,8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 イエスは飢え、病み、裸の人々との尽きることのない関わりに、疲れ倒れそうになったことに何度もなった。その度に、一人祈った。まさに、必死に聴こうとした。これでいいのだろうか。何をすべきか。楽な道はないのだろうか。逃げてもいいのだろうか。神の意志を尋ねた。そして、人々の元へ戻って行った。    
今週の一句
コスモスや 斑入れられれば 新世界

―もとゐ―


 2016年10月23日(日)
 年間第30主日

 ルカによる福音書18章9節-14節

18,9 〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18,10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18,11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18,12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18,13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18,14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 イエスの視点は世界を相対的な人間の目で見るのではなく、つまり、「持つ」の価値観で測るのではなく、神、つまり、「在る」の価値観で見た。「所有」の世界ではいじめられ、拒否され、断罪される「徴税人」は、神からは尊重される。だかた、この世界に従うのではなく、神のもとで生きよ、とイエスは語られる。          
今週の一句
古池や 逆さ紅葉の 万華鏡

―もとゐ―


 2016年10月30日(日)
 年間第31主日

 ルカによる福音書19章1節-10節

19,1 〔そのとき、〕イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19,2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19,3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19,4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19,5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19,6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19,7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19,8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19,9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19,10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 イエスは出会った人々の人生を変えられる。貧しい者への福音を捕らわれからの「自由」「解放」とルカ福音書は語る。(ルカ4・18,19)ザアカイも金への執着から解き放たれ、新たな人生、神と人々の喜ばれる生を始めた。まさに、「今日、救いがこの家を訪れた」。     


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