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2016年10月2日(日) 年間第27主日 ルカによる福音書17章5節-10節
イエスの生涯からは奇跡を見ることはない。福音書の奇跡物語りは文学様式の「聖者伝説」で書かれているので考慮しない。むしろ、十字架刑死のように神的ではなく当たりまえの人間でしかない。無論、並外れた知恵、洞察力、行動には魅了される。故に、今日の「信仰を増して奇跡を行いたい」という弟子の要望にはイエスは返事に窮したことだろう。「からし種一粒の信仰」とはあるかないか 分からないのが「信仰」と答えた。イエスのように、こつこつと神の指針に真摯に向き合い、従うなら闇に光りが指しやがては昼のようになる、不断の微小の行動の積み重ねを「信仰」と呼ぶ、と教えられたのだ。 |
2016年10月9日(日) 年間第28主日 ルカによる福音書17章11節-19節
一般に、宗教は御利益宗教と言われ、人は神々に五穀豊穣、無病息災家内安全を祈り求める。人と神の関係は、人からの一方的要求に神を従わせる。しかも、人は神へ無限の要求をする。例えば、不死や全世界を手に入れるとか。しかも、安易に、僅かなお賽銭で、神を従わせようとする。さらに、願い叶わなければ、他所の神へと鞍替えする。全くの、ご都合主義だ。 さて、旧約聖書では神と人との関係は、一方的ではない。双方的だ。さらに、人の幸いは神のことば、生き方の指針を守って行うことによって与えられる、と考えている。イエスはそれを生きた人であった。重い皮膚病からの治癒に神を賛美しに戻ってきたサマリア人は、神との相互関係に生きていたのだ |
2016年10月16日(日) 年間第29主日 ルカによる福音書18章1節-8節
イエスは飢え、病み、裸の人々との尽きることのない関わりに、疲れ倒れそうになったことに何度もなった。その度に、一人祈った。まさに、必死に聴こうとした。これでいいのだろうか。何をすべきか。楽な道はないのだろうか。逃げてもいいのだろうか。神の意志を尋ねた。そして、人々の元へ戻って行った。 |
2016年10月23日(日) 年間第30主日 ルカによる福音書18章9節-14節
イエスの視点は世界を相対的な人間の目で見るのではなく、つまり、「持つ」の価値観で測るのではなく、神、つまり、「在る」の価値観で見た。「所有」の世界ではいじめられ、拒否され、断罪される「徴税人」は、神からは尊重される。だかた、この世界に従うのではなく、神のもとで生きよ、とイエスは語られる。 |
2016年10月30日(日) 年間第31主日 ルカによる福音書19章1節-10節
イエスは出会った人々の人生を変えられる。貧しい者への福音を捕らわれからの「自由」「解放」とルカ福音書は語る。(ルカ4・18,19)ザアカイも金への執着から解き放たれ、新たな人生、神と人々の喜ばれる生を始めた。まさに、「今日、救いがこの家を訪れた」。 |
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