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2016年9月4日(日) 年間第23主日 ルカによる福音書14章25節-33節
イエスは道端に捨て置かれた人々が幸いになるよう顧みられた。イエスのように「安息日」すなわち、奴隷をその労働から休ませることを実践し、晩餐に貧しい人を招く、つまり、「小さくされた人々」を優先的に大切にすることは、この世からは歓迎されない、拒否されるだけ。この道に続けとイエスは私たちを招く。 |
2016年9月11日(日) 年間第24主日 ルカによる福音書15章1節-32節
イエスは何故か、重荷を負わされた人々と関わられた。それは、神の与えられた生命が輝くためであった。イエスは思った、生命の主は神だ、人が恣意的に利用し奪うことはできない。神の意志に従うことが、つまり、「産めよ,増えよ、地に満ちよ」こそが生命であり、その目的だ、と。特に、排除され、暴力と差別を受ける彼・彼女の生命が尊重され、輝くようにイエスは交流された。イエス自身がマリアの子として不平等に扱われた痛みを知っていたからこそ、彼・彼女たちに寄り添ったのだろう。 |
2016年9月18日(日) 年間第25主日 ルカによる福音書16章1節-13節
イエス時代、ガリラヤの農民たちは重税と膨大な律法の疲弊していた。他方、支配者たちは搾取し贅沢に遊び暮らし、宗教指導者たちは「貧しい人」たちを「罪人」と差別、排除して、前者に「不正」を働いていた。ヤーウェ、即ち、「be=ある」を最高価値とする神に従うイエスは、農民たちの生命が守られるように支配者、宗教指導者たち、光の子らより賢く振る舞い、彼らから見れば「不正」としか見なされないことを働いた。その結果、十字架刑死となった。 |
2016年9月25日(日) 年間第26主日 ルカによる福音書16章19節-31節
今日の箇所は金持ちへの警告となっている。旧約聖書の預言者の特徴である、政治・宗教指導者らを神への背反と指弾し、「回心」の呼びかけと同じ。 じゃ、私のような庶民には無関係かと言えば、そうではない。確かに、金持ちのように贅沢三昧に暮らしてはいない。不足を嘆くならきりのないことだが、まずは、衣食住には不自由していない。そんな私たちの周りには「ラザロ」がたくさんいる。「ラザロ」に目を向ければ心痛む、けれど、我が身の境遇の恵まれたことを感謝せずにはいられないだろう。そして、「ラザロ」の境遇が幸いになるよう働きはじめるのではないだろうか。「自分を愛するように、他者を愛しなさい。」イエスの指摘は、私たちの心をもゆさぶる。 |
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