ももちゃんの一分間説教



今週の一句
信号待ち 児童らの列の 九月一日

―もとゐ―


 2016年9月4日(日)
 年間第23主日

 ルカによる福音書14章25節-33節

14,25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
14,26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
14,27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
14,28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
14,29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
14,30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
14,31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
14,32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
14,33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 イエスは道端に捨て置かれた人々が幸いになるよう顧みられた。イエスのように「安息日」すなわち、奴隷をその労働から休ませることを実践し、晩餐に貧しい人を招く、つまり、「小さくされた人々」を優先的に大切にすることは、この世からは歓迎されない、拒否されるだけ。この道に続けとイエスは私たちを招く。
今週の一句
虫の音に 残る暑さを 忘れおり

―もとゐ―


 2016年9月11日(日)
 年間第24主日

 ルカによる福音書15章1節-32節

15,1 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15,2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15,3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15,4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15,5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15,6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15,7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
15,8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15,9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15,10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
15,11  また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 
15,12  弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 
15,13  何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 
15,14  何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 
15,15  それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 
15,16  彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 
15,17  そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 
15,18  ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 
15,19  もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 
15,20  そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 
15,21  息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 
15,22  しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 
15,23  それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 
15,24  この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 
15,25  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 
15,26  そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 
15,27  僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 
15,28  兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 
15,29  しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15,30  ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』  
15,31  すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 
15,32  だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」  

 イエスは何故か、重荷を負わされた人々と関わられた。それは、神の与えられた生命が輝くためであった。イエスは思った、生命の主は神だ、人が恣意的に利用し奪うことはできない。神の意志に従うことが、つまり、「産めよ,増えよ、地に満ちよ」こそが生命であり、その目的だ、と。特に、排除され、暴力と差別を受ける彼・彼女の生命が尊重され、輝くようにイエスは交流された。イエス自身がマリアの子として不平等に扱われた痛みを知っていたからこそ、彼・彼女たちに寄り添ったのだろう。
今週の一句
虫の音に 急き立てられて 家路つく

―もとゐ―


 2016年9月18日(日)
 年間第25主日

 ルカによる福音書16章1節-13節

16,1 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。
16,2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16,3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16,4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16,5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16,6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16,7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16,8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16,9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
16,10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16,11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
16,12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
16,13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 イエス時代、ガリラヤの農民たちは重税と膨大な律法の疲弊していた。他方、支配者たちは搾取し贅沢に遊び暮らし、宗教指導者たちは「貧しい人」たちを「罪人」と差別、排除して、前者に「不正」を働いていた。ヤーウェ、即ち、「be=ある」を最高価値とする神に従うイエスは、農民たちの生命が守られるように支配者、宗教指導者たち、光の子らより賢く振る舞い、彼らから見れば「不正」としか見なされないことを働いた。その結果、十字架刑死となった。
今週の一句
降りやまぬ 雨の霊園 曼珠沙華

―もとゐ―


 2016年9月25日(日)
 年間第26主日

 ルカによる福音書16章19節-31節

16,19 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16,20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16,21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16,22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16,23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16,24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16,25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16,26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16,27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16,28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16,29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16,30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16,31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 今日の箇所は金持ちへの警告となっている。旧約聖書の預言者の特徴である、政治・宗教指導者らを神への背反と指弾し、「回心」の呼びかけと同じ。

 じゃ、私のような庶民には無関係かと言えば、そうではない。確かに、金持ちのように贅沢三昧に暮らしてはいない。不足を嘆くならきりのないことだが、まずは、衣食住には不自由していない。そんな私たちの周りには「ラザロ」がたくさんいる。「ラザロ」に目を向ければ心痛む、けれど、我が身の境遇の恵まれたことを感謝せずにはいられないだろう。そして、「ラザロ」の境遇が幸いになるよう働きはじめるのではないだろうか。「自分を愛するように、他者を愛しなさい。」イエスの指摘は、私たちの心をもゆさぶる。  


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