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2016年8月7日(日) 年間第19主日 ルカによる福音書12章32節-48節
良きサマリア人のたとえ、マルタとマリア、主の祈り、また、大地主、そして今日の箇所まで、一貫したテーマを敢えて探るなら、「あなたのこころはどこにあるのか」と考えられる。イエスの関心が疲弊し傷つき倒れた人たちの声を受け止め、寄り添い、立ち上がらせることであったように、神の呼びかけ、即ち、小さくさせられた人々の声に己のこころを置きたい。 |
2016年8月14日(日) 年間第20主日 ルカによる福音書12章49節-53節
イエスの登場は人々の間に分裂をもたらした。これまでの福音の箇所をざっと読み直しても、特に、人々の反応から分かる。『良きサマリア人のたとえ』を聞いた律法学者、彼は当然、永遠の命に至ると己惚れていたけれど。また、当然、自分こそをイエスが誉めると思い込んでいたマルタの反応、蔵を立て直すほどの財を蓄えた大地主の譬えを聞いた資産家たちの反応、それらの人たちは言わば世間的に評価、称賛される人たちであるが、イエスはむしろ彼らとは対照的な、異邦人、弱者、無能者、貧者として社会的に低く評価され、宗教的には「罪人」と差別され排斥される人々を永遠の命に至る者、神の前に生きる者、富にではなく神にこころを向けていると評価したのだった。したがって、このイエスを受け入れるか拒否するか世論は二分されることとなる。 |
2015年8月21日(日) 年間第21主日 ルカによる福音書13章22節-30節
現代世界ではトップに立つまでには何度も狭い門を突破しなければならない。出来たならば、権力、富、名声が得られる。日本では幼児からその道を走るよう、叱咤される。 しかし、イエスはこの世の神にではなくヤーウェ神のみ旨に応えられた。貧しく、飢え、裸で、病み、不平等に差別的に扱われている人々の人権が守られ、人生が幸いになるよう関わられた。しかし、家族や郷里の人々からは気が変になったとか、悪霊につかれたのだ、と理解されず、孤独であった。更に、支配者から危険視されて、命まで奪われた。斯様に、この世で神のみ旨に応えることは十字架を負い、自分を捨てる道となる。それを聖書では「狭い門」と呼ぶ。 |
2016年8月28日(日) 年間第22主日 ルカによる福音書14章1節、7節-14節
「安息日」はいかなる仕事もしてはならない、との神からの呼びかけがある。(出エ19・10)その意図は、せめて一週間の一日だけでも奴隷をその重労働から解放し、人権の回復を目指すためと言う。「それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」(同23・12)神の目は常に弱い立場にいて声をあげられない人々に注がれている。(つまり、隣人になることが神の呼び掛けだ。)従って、安息日で優先することは、長年、病の重荷に喘いでいる人の隣人になることだ。神の国の幸いを先取りすると言う晩餐も平等を呼びかける神に応えるなら、やもめ、孤児、寄留の民と言われる「弱い立場の者」を招待する晩餐としなければならない。 |
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