ももちゃんの一分間説教



今週の一句
夏雷雨 帰宅のこころ 立ち往生

―もとゐ―


 2016年8月7日(日)
 年間第19主日

 ルカによる福音書12章32節-48節

12,32 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12,33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12,34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12,35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12,36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12,37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12,38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12,39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12,40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12,41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12,42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12,43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12,44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12,45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12,46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12,47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12,48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 良きサマリア人のたとえ、マルタとマリア、主の祈り、また、大地主、そして今日の箇所まで、一貫したテーマを敢えて探るなら、「あなたのこころはどこにあるのか」と考えられる。イエスの関心が疲弊し傷つき倒れた人たちの声を受け止め、寄り添い、立ち上がらせることであったように、神の呼びかけ、即ち、小さくさせられた人々の声に己のこころを置きたい。
今週の一句
ファミレスや 祖父母と食事 お盆かな

―もとゐ―


 2016年8月14日(日)
 年間第20主日

 ルカによる福音書12章49節-53節

12,49 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12,50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12,51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12,52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12,53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

 イエスの登場は人々の間に分裂をもたらした。これまでの福音の箇所をざっと読み直しても、特に、人々の反応から分かる。『良きサマリア人のたとえ』を聞いた律法学者、彼は当然、永遠の命に至ると己惚れていたけれど。また、当然、自分こそをイエスが誉めると思い込んでいたマルタの反応、蔵を立て直すほどの財を蓄えた大地主の譬えを聞いた資産家たちの反応、それらの人たちは言わば世間的に評価、称賛される人たちであるが、イエスはむしろ彼らとは対照的な、異邦人、弱者、無能者、貧者として社会的に低く評価され、宗教的には「罪人」と差別され排斥される人々を永遠の命に至る者、神の前に生きる者、富にではなく神にこころを向けていると評価したのだった。したがって、このイエスを受け入れるか拒否するか世論は二分されることとなる。 
今週の一句
花火より 屋台に集う 村娘

―もとゐ―


 2015年8月21日(日)
 年間第21主日

 ルカによる福音書13章22節-30節

13,22 〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13,23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13,24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13,25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13,26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13,27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13,28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13,29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13,30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 現代世界ではトップに立つまでには何度も狭い門を突破しなければならない。出来たならば、権力、富、名声が得られる。日本では幼児からその道を走るよう、叱咤される。

 しかし、イエスはこの世の神にではなくヤーウェ神のみ旨に応えられた。貧しく、飢え、裸で、病み、不平等に差別的に扱われている人々の人権が守られ、人生が幸いになるよう関わられた。しかし、家族や郷里の人々からは気が変になったとか、悪霊につかれたのだ、と理解されず、孤独であった。更に、支配者から危険視されて、命まで奪われた。斯様に、この世で神のみ旨に応えることは十字架を負い、自分を捨てる道となる。それを聖書では「狭い門」と呼ぶ。
今週の一句
うちわ振る 帰宅電車待つ 夏週末

―もとゐ―


 2016年8月28日(日)
 年間第22主日

 ルカによる福音書14章1節、7節-14節

14,1 〔安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。〕
14,7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14,8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14,9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14,10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14,11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14,12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14,13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14,14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 「安息日」はいかなる仕事もしてはならない、との神からの呼びかけがある。(出エ19・10)その意図は、せめて一週間の一日だけでも奴隷をその重労働から解放し、人権の回復を目指すためと言う。「それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」(同23・12)神の目は常に弱い立場にいて声をあげられない人々に注がれている。(つまり、隣人になることが神の呼び掛けだ。)従って、安息日で優先することは、長年、病の重荷に喘いでいる人の隣人になることだ。神の国の幸いを先取りすると言う晩餐も平等を呼びかける神に応えるなら、やもめ、孤児、寄留の民と言われる「弱い立場の者」を招待する晩餐としなければならない。


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