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2016年7月3日(日) 年間第14主日 ルカによる福音書10章1節-12節、17節-20節
イエスは宣教に72人を派遣した。その宣教は悪霊を追放するためと言う。イエスのいたガリラヤにはごまんと飢えた人、病む者、裸の人、差別され虐げられた人々が横たわっていた。悪霊追放はその非人間化する構造、制度、利己心を変革することを意味する。イエスは狼の中に小羊を送り込むと表現している。それほどの困難な闘い、自己を捨て、十字架を背負うこと、。枕するところさえないことなのだ。72人はその宣教に派遣されたのだ。そして、私たちキリスト者も。 |
2016年7月10日(日) 年間第15主日 ルカによる福音書10章25節-37節
イエスの弟子たちは宣教報告をした、「悪霊が屈服します。」と。それを受けてイエスは、「サタンが天から落ちた。」と答えた。これはキリスト者が何であり、何をするのかを端的にっている。 今日の「よきサマリア人」の譬えではそれを具体的に示している。即ち、神を愛し、隣り人を愛することがキリスト者であり、神を愛するとは祭司のように神殿で神に生贄を捧げることではなく、隣人に目を向けること、つまり、「追剥に襲われて傷ついた人」を助け起こし介抱すること。それはマタイ福音書のイエスが「裸の人、飢えた人に服を着せ、パンを与えたのは私にしてくれたのだ」と言った意味と同じ。 これが「悪霊の追放」、即ち、人権回復なのだ。更に、イエスが隣人となったのはユダヤ教共同体から差別され排除された遊女、徴税人、ライ病者であった。それらを含め「追剥に襲われた人」と括れるだろう。よって、イエスに倣うキリスト者とは支配者、権力者から人権、生命を奪われた人の隣人になることなのだ。 |
2016年7月17日(日) 年間第16主日 ルカによる福音書10章38節-42節
イエスは実に「隣人」になることが上手い。マルタから非難されるマリアの側に立たれた。忙しく立ち働いているマルタを前に何もできないマリアは肩身狭く居場所がなかっただろう。イエスはそんなマリアが一番必要なことを選んだ、とマルタに告げたのだった。マルタは何をイエスが言ったのかわからなかっただろう。 マルタは有能な働き者であるが故に、そうではないマリアは弱者で、常にマリアの上に立つ強者となる。追剥に襲われ傷ついた人の「隣人」になれと呼びかけたイエスはマリアの隣人となった。たとえ、マルタから非難されようとも。 |
2016年7月24日(日) 年間第17主日 ルカによる福音書11章1節-13節
祈りは神の前に身を置き、神の声に耳を傾け、何をなすべきかを決断すること。マリアの姿勢に繋がる。祈りを口ずさみながら自分の歩みを導く。「今日のパンを求め、負債の帳消しを求める。」ことをイエスと弟子たちはその運動方針にした、と言う。まさに、貧しい者への福音だ。貧困、飢え、暴力に打ちひしがれている人々の「隣り人」になること。 |
2016年7月31日(日) 年間第18主日 ルカによる福音書12章13節-21節
蔵に収まり切れない程の財を残して突然亡くなったこの主人公は子孫にほくそ笑まれて「偉い人」と称賛されたことだろう。しかし、雇われた農業奴隷から見れば、血も涙もない鬼、強欲な搾取者として、恐れられ軽蔑されただろう。 他方、飢え病み裸の人々の仲間であるイエスからは非難されても致し方ないだろう。イエスは聖書の教えを聞いていた。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」「あなたは「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えたのは主」である。(申8、11〜18) |
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