ももちゃんの一分間説教



今週の一句
白百合や こころ高鳴る 蕾かな

―もとゐ―


 2016年6月5日(日)
 年間第10主日

 ルカによる福音書7章11節-17節

7,11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
7,12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
7,13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
7,14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
7,15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
7,16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
7,17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 イエに出会い、その生き様に触れたガリラヤの貧しい人々は「神の国(=神の支配)」の始まったと見た。それを病人の癒し、死人の蘇生と当時の黙示文学的表現で表した。何となれば、ガリラヤの貧しい人々は差別され、虐げられ、捨てられて、死線を彷徨わされていたからだ。例えば、現代のシリア難民のように。彼らの望みは迫りくる死の圧力、即ち、支配階級の暴力、一般人の利己主義、無関心に立ち向かい、乗り越える勇気だ。イエスはまさにただの弱小のいち市民でありながらも、権力の迫害にもかかわらず、敢然と立ち向かって行った人、正しく「神の人」であるとガリラヤの貧しい人たちは驚き見たのであった。

今週の一句
梅雨空や 選挙ポスター待つ 新掲示板

―もとゐ―


 2016年6月12日(日)
 年間第11主日

 ルカによる福音書7章36節-8章3節

7,36 〔そのとき、〕あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。
7,37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
7,38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。
7,39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。
7,40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7,41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
7,42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
7,43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
7,44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
7,45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
7,46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
7,47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
7,48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
7,49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
7,50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
8,1 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
8,2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
8,3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 福音書にはイエスの食事の場面が度々描かれている。取税人レビやザアカイとの食事、5000人への供食、いわゆる最後の晩餐、そして、今日の箇所であるファリサイ派シモンからの招待による食事、等々。

 さて、食事を共にするとは、食卓に連なる者の親密を表す。仲の悪い者とは食卓を共にしない。サークルや団体の食事も成員同士が同じ目標に向かい、努力し、一致協力する仲間であることを表す。

 このことから、イエスが当時のユダヤ教世界から「罪人」と呼ばれた徴税人や遊女と食事することは、イエスにとって彼・彼女たちは仲間であったのだ。それに対し、シモンにとって食事を共にする人は「正しい人」と呼ばれる者に限られていたのです。何故なら、彼らは神との約束を忠実に守り、「聖なるもの」になれとの呼びかけに応えることが彼らの生き方であった、それゆえ、神に背いた「罪人」との交わりは「汚れ」に染まるから、彼・彼女らを排除、食卓を共にしなかった。シモンは許可もなく食事の席に入って来た女を苦々しく思ったでしょう。

 更に、なぜ、預言者と評判の高いイエスが女性をおいださないのか、訝ったことでしょう。しかし。、イエスはシモンの想いどおりにはならなかった。むしろ、知らされた。律法、つまり、神の示される生き方を、レビ記やイエスの教えでは律法の中心は「自分を愛するように、隣人を愛さいなさい」だ。自らを「正しい」として「罪人」「穢れた者」と他者を呼び、差別、いじめ、排除する者が「聖なる者」であるはずがないのだ。「遊女」「」取税人」と飯を食うことが「聖なる」ことなのだ。     

今週の一句
梅雨晴れ間 億ションを飾れり 布団干し 

―もとゐ―


 2016年6月19日(日)
 年間第12主日

 ルカによる福音書9章18節-24節

9,18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9,19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
9,20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
9,21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9,22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9,23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9,24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 

 群衆(ガリラヤの下層民)はパンと癒し平等を求めてイエスに従った。また、中流層である弟子たちも各々期待を込めてイエスに従った。

 それ故、イエスの「私を誰と言うのか」の問いに、観念的な答えを弟子たちはした。確かにカトリックの要理テストでは模範解答だろう。しかし、続くイエスのことばはイエス信従とは口先だけの模範解答をすることではなく、実際に、イエスの苦難の道を歩むことを示している。と言うのは、何故か、ルカ版には削除されているが、他のマルコ、マタイ福音書のいあるペテロへのイエスによる叱責の記事から分かる。

 クレド(信仰箇条)をミサで唱えること信仰ではない。利己的人生ではなくイエスと一緒に苦難にある人たちと歩み続けることこそ「信仰」と呼ばれる。 
今週の一句
紫陽花や 喜ぶ雨に 艶々し

―もとゐ―


 2016年6月26日(日)
 年間第13主日

 ルカによる福音書9章51節-62節

9,51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
9,52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
9,53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
9,54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
9,55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
9,56 そして、一行は別の村に行った。
9,57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
9,58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
9,59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
9,60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
9,61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」
9,62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 イエスに従うとは、自分の命を捨て、日々、自分の十字架を背負ってついて行くこと、とイエスは言う。今回はさらにつけ加えている。即ち、枕するところもない、死者の葬りは人に任せなさい。暇乞いするな、と。それらは、まるで、出エジプトの物語りではないか。出エジプトは「自律」への物語りと言われる。従って、イエスに従うことは、「神」に頼ることか「自立」への道と言える。   


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