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2016年3月6日(日) 四旬節第4主日 ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節
イエスは自分の使命を「貧しい者たち」に福音を伝えることとした。「貧しい者たち」とは目の見えない人、捕らわれ人、圧迫された人と例をあげている。言わば、「小さくされた人」のこと。しかし、今日の箇所では、それをもっと広げているようだ。「徴税人」と「放蕩した弟息子」をも天の父はゆるし、祝宴を催す、と教えている。その両者は「罪人」と言われるが、圧倒的大多数の貧しいが故に、律法を守ろうとしても守れない、つまり、無意識に神から背反する人々と異なり、彼らは意識的に積極的に神から離れる人々だから。群れから離れる羊、親から出奔する弟息子、両者は故意に背反するのだ。だから、ルカは「悔い改め」なければ父はゆるさない、と付け足す。けれど、「放蕩息子」の譬えでは、父は無条件に弟息子を受け入れている。ルカの主張とは相異なる。ところが、父は兄息子の逆鱗に触れる。それはイエスの十字架刑死を暗示する。つまり、父のゆるしは称賛されるどころか、受け入れられず、一般社会からは非難され罵倒されるということ。父のゆるし、愛はあまっちょろい、感傷的なものではないことなのだ。イエス、父の「貧しい者への福音は」社会から排斥され、苦難を受けることとなる。 |
2016年3月13日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書8章1節-11節
先週と同じく、イエスの受難死を暗示している。社会から非難される人に寄り添うことは理解されず、排斥されるのだ。キリスト者はその道を行く者のこと。 |
2016年3月20日(日) 受難の主日 ルカによる福音書19章28節-40節
イエスは都エルサレムに上る。ユダヤ教最大の過越祭への巡礼であった。しかし、ガリラヤ民衆の熱狂的支持を得ているイエスの噂を聞いていたエルサレム支配者層は、一触即発の民衆の暴動を恐れていた。 しかし、ルカ福音記者はイエスを柔和な王、無抵抗非暴力主義者として描いた。暴力は暴力を呼ぶことを知っていたからだろう。 |
2016年3月24日(木) 主の晩餐 聖木曜日 ヨハネによる福音書13章1-15節
イエスは別れの前に、弟子たちと食事をした。その場には裏切ったユダはじめ胸中のはかりしれない弟子たちが集まった。イエスの神の意志を今の世に実現しようとの呼びかけに、集まった人々は雑多だった。決して、一枚岩ではなかったのだ。この世的成功を夢見た者や、一攫千金のチャンスだと思った人たち、等。それでも、あらたに彼らに向かって、互いに大切にしあうこと、足を洗い合うこと、即ち、神の意志の実現を約束しようと呼びかけたのだ。イエスのもとに集う人々は雑多だ、でも、人としての生き方、方向指示を与えられるのだ。 |
2016年3月27日(日) 復活の主日 日中のミサ ヨハネによる福音書20章1-9節
イエスは「最後の晩餐」で弟子たちの足を洗った。それを福音記者は「この上なく愛し抜かれた」(新共同訳)「限りなく愛した」(フランシスコ訳)「最後まで愛した」(田川訳)その弟子たちはイエスを裏切った者だった。イエスの弟子たちへの想いは人間にはありえない愛であった。この世的無価値なその愛を弟子たちは「神の愛」と呼び、即ち、一時的、滅びるもんもではなく、永遠に続くと信じたのだ。イエスの愛に触れた者は新しくなる。放蕩息子をゆるし、遊女を愛おしみ、取税人と食事を共に楽しむ者に生まれ変わるのだ。それを「復活」と呼ぶ。 |
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