ももちゃんの一分間説教



今週の一句
春の陽や 浴びてお弁当 園児たち

―もとゐ―


 2016年3月6日(日)
 四旬節第4主日

 ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節

15,1 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15,2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15,3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15,11 「ある人に息子が二人いた。
15,12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15,13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15,14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15,15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15,16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15,17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15,18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15,19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15,20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15,21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15,22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15,23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15,24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15,25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15,26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15,27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15,28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15,29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15,30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15,31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15,32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 イエスは自分の使命を「貧しい者たち」に福音を伝えることとした。「貧しい者たち」とは目の見えない人、捕らわれ人、圧迫された人と例をあげている。言わば、「小さくされた人」のこと。しかし、今日の箇所では、それをもっと広げているようだ。「徴税人」と「放蕩した弟息子」をも天の父はゆるし、祝宴を催す、と教えている。その両者は「罪人」と言われるが、圧倒的大多数の貧しいが故に、律法を守ろうとしても守れない、つまり、無意識に神から背反する人々と異なり、彼らは意識的に積極的に神から離れる人々だから。群れから離れる羊、親から出奔する弟息子、両者は故意に背反するのだ。だから、ルカは「悔い改め」なければ父はゆるさない、と付け足す。けれど、「放蕩息子」の譬えでは、父は無条件に弟息子を受け入れている。ルカの主張とは相異なる。ところが、父は兄息子の逆鱗に触れる。それはイエスの十字架刑死を暗示する。つまり、父のゆるしは称賛されるどころか、受け入れられず、一般社会からは非難され罵倒されるということ。父のゆるし、愛はあまっちょろい、感傷的なものではないことなのだ。イエス、父の「貧しい者への福音は」社会から排斥され、苦難を受けることとなる。
今週の一句
初鳴きや 笑うて飛ばす 厚き雲

―もとゐ―


 2016年3月13日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書8章1節-11節

8,1 〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。
8,2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8,3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8,4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8,5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8,6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8,7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8,8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8,9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8,10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8,11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 先週と同じく、イエスの受難死を暗示している。社会から非難される人に寄り添うことは理解されず、排斥されるのだ。キリスト者はその道を行く者のこと。     
今週の一句
白木蓮や 師上る空を 仰ぎ見る

―もとゐ―


 2016年3月20日(日)
 受難の主日

 ルカによる福音書19章28節-40節

19,28 〔そのとき、〕イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19,29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19,30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19,31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19,32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19,33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19,34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19,35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19,36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19,37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19,38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19,39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19,40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 イエスは都エルサレムに上る。ユダヤ教最大の過越祭への巡礼であった。しかし、ガリラヤ民衆の熱狂的支持を得ているイエスの噂を聞いていたエルサレム支配者層は、一触即発の民衆の暴動を恐れていた。 しかし、ルカ福音記者はイエスを柔和な王、無抵抗非暴力主義者として描いた。暴力は暴力を呼ぶことを知っていたからだろう。 
今週の一句
彼岸過ぎ 満ちて行く月 主の受難

―もとゐ―


 2016年3月24日(木)
 主の晩餐 聖木曜日

 ヨハネによる福音書13章1-15節

13,1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13,2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13,3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13,4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13,5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13,6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13,7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13,8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13,9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13,10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13,11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13,12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13,13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13,14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13,15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 イエスは別れの前に、弟子たちと食事をした。その場には裏切ったユダはじめ胸中のはかりしれない弟子たちが集まった。イエスの神の意志を今の世に実現しようとの呼びかけに、集まった人々は雑多だった。決して、一枚岩ではなかったのだ。この世的成功を夢見た者や、一攫千金のチャンスだと思った人たち、等。それでも、あらたに彼らに向かって、互いに大切にしあうこと、足を洗い合うこと、即ち、神の意志の実現を約束しようと呼びかけたのだ。イエスのもとに集う人々は雑多だ、でも、人としての生き方、方向指示を与えられるのだ。 
今週の一句
こぶし咲き 故郷想う 憲法九条

―もとゐ―


 2016年3月27日(日)
 復活の主日 日中のミサ

 ヨハネによる福音書20章1-9節

20,1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20,2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20,3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20,4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20,,5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20,6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20,7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20,8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20,9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 イエスは「最後の晩餐」で弟子たちの足を洗った。それを福音記者は「この上なく愛し抜かれた」(新共同訳)「限りなく愛した」(フランシスコ訳)「最後まで愛した」(田川訳)その弟子たちはイエスを裏切った者だった。イエスの弟子たちへの想いは人間にはありえない愛であった。この世的無価値なその愛を弟子たちは「神の愛」と呼び、即ち、一時的、滅びるもんもではなく、永遠に続くと信じたのだ。イエスの愛に触れた者は新しくなる。放蕩息子をゆるし、遊女を愛おしみ、取税人と食事を共に楽しむ者に生まれ変わるのだ。それを「復活」と呼ぶ。


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