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2016年1月1日(木) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
日の出とともに新しい年が始まった。新年に私たちはそれぞれ期待を込めて待ったのではないか。誕生したイエスを囲んでいる人々の思いは何であっただろう。ヨゼフ・マリアの両親、彼らと同じく人口登録のためにベツレヘムに旅して来た人々、ベツレヘムの住人、そして羊飼いたち。彼らの胸中の想いはそれぞれ異なるだろう。両親には子の成長と幸せな家庭を、旅人たちは辛い旅が終わり無事家に戻れることを。ベツレヘムの住民たちは重税や律法からの解放を。羊飼いらは辛くて厳しい、賃金の安い重労働からの解放と人としての対等の扱いを望んだことだろう.。 集まった各自の想いは異なるが、この誕生したイエス、即ち、イエスの生涯が自分たちの境遇を変える何かを期待していることを示している。 |
2016年1月3日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
一連のクリスマス物語りは神の導きに従う人間の生き方が示される。夢のお告げによりマリアを離縁せず妻に迎えたヨゼフ、天使の声に従って乳飲み子を見に行った羊飼いたち、そして、占星術の学者たちは星に導かれてイエスを拝みに来た。それぞれ、夢、天使、星に従ったとあるが、人間を超えた存在、つまり、「神」の言い換えであろう。これは、旧約聖書の人間観に基づく。人間にとって幸い、真理とは神との契約を守ること、つまり、神の言葉を人生の指針とし、従うところにあると言う、占星術の学者たちは星の導きに従ったからこそイエスに出会えたのだが、星にではなくヘロデ王、即ち、この世の権力者に聞き従おうとしたとき、イエスへの道を見失った。ヘロデの与える幸い、真理とはこの世的、利己主義的だ。ヘロデの幸いは権力を独り占めすること。そのために、妻、子どもをも殺害し、イエスを殺害しようとして同時期にベツレヘムで生まれた男の子を皆殺しした。他方、神の導く幸い、真理とはイエスが示したように誰もが大切にされること。一人の命も失わないこと。奪うのではなく与えること。しかし、神に従う道はイエスのよう世からは憎まれる艱難な道なのだ。 |
2016年1月10日(日) ルカによる福音書3章15〜16節、21〜22節
イエスは洗礼を受け、聖霊を授けられ、神の子となった。 つまり、イエスは成人した者として、親ではなく神の言葉に従う新たな人生を歩み出した。神の言葉に従うために聖霊、即ち、「知識であり識別であり思慮であり勇気であり、主を知り、畏れ敬う」を以て歩み始めた。イエスは今、ここで、何をなすべきかを常に神の言葉を熟慮しつつ生きたのであった。 |
2016年1月17日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書2章1節-11節
結婚式は他の祭りごとと同じく一瞬、日常生活を彩り華やかにしガラッと変え、潤いを与える。その時ばかりは、困窮な暮らしにあっても、人は祝い集い、談笑し、飲み食いし、日頃の疲れを癒す。イエスの公的登場をカナの婚宴に場面設定したヨハネ福音書はイエスをその日常を寸断し、日々の生活に喜びと潤いを与える方であると言いたかったのだろうか。 世話役が言うように、イエスは「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」即ち、イエスとは、重荷を押し続けられ、苦難にある人々に解放と新たな生き方のあることをを示された方である、と。 |
2016年1月24日(日) ルカによる福音書4章14〜21節
イエスは貧しい者に福音を伝えたと言う。貧しい者とは誰か。イエスの関わった人は誰であったか。パンを求める「飢えた人」、癒されたライ病人などの「病気の人」、徴税人や遊女の「罪人と呼ばれる人」であった。彼・彼女たちは不平等に扱われ、自由を奪われ、差別に圧し潰されていた。彼らにとって福音は、平等になること、自由に生きられること、尊重されることではないか。イエスはその神の呼びかけに応えられた。神のことばの実現は人が応じるとき成されるのだ。 |
2016年1月31日(日) 年間第4主日 ルカによる福音書4章21節-30節
イエスは貧しい者に福音を告げた。そのイエスを故郷の人たちは受け入れられなかった。この物語の背景には、旧約聖書における預言者の受難がありお、それをイエスに当てはめ、イエスの受難を説明している。貧しい者たちを平等にしよう、とのメッセージは他者を犠牲にし、自己の利益を求める権力者には不都合だ。また、自覚せずに、他者を犠牲にして生きている人には心を騒がせる言葉だ。反応は無視か抹殺だ。あるいは、生き方を変えようとするかだ。 |
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