ももちゃんの一分間説教



今週の一句
イルミネーション 浮かぶ闇夜の 銀杏黄葉

―もとゐ―


 2015年12月6日(日)
 待降節第2主日

 ルカによる福音書3章1節-6節

3,1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
3,2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3,3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
3,4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
3,5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
3,6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 徴を見分けなさい、目を覚ましていなさい。洗礼者ヨハネはこの神の言葉に応え、立ち上がった。「回心せよ、神に立ち返れ」と社会の上層部に叫びを上げた。パックス・ロマーナ(ローマの平和)ローマ帝国の圧倒的軍事力の前に直轄領とされたユダヤは忍従を強いられ、99%の貧しい人々は重税と律法に塗炭の苦しみに喘えぎ、人として粗末に扱われていた。それに対し、指導者階級は保身に汲々として民衆の苦しみを放置していた。

 人は神の前では平等だ、との神との契約に生きるユダヤ教徒であるヨハネは、古の預言者と同じく、徴を見分け目を覚まして、その神からの呼びかけに立ち上がったのだ。     
今週の一句
吹き払い 母乗せて行く 冬嵐

―もとゐ―


 2015年12月13日(日)
 待降節第3主日

 ルカによる福音書3章10節-18節

3,10 〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3,11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3,12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3,13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3,14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
3,15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3,16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3,18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

 洗礼者ヨハネは荒れ野で叫んだ。「回心せよ」と。回心とは神以外のものに従っているっことから神に従うことへの方向転換だ。これは、「目を覚ましなさい」「徴を見分けなさい」に通じる。それゆえ、生活上の具体的あり方を改めること。叫びを聞いた人々はヨハネに「何をしたらよいのか」と尋ねた。ヨハネは具体的に答えている。しかし、ヨハネのもとに来た人々は所謂、中流階級、持っている人、権利のある人、強制力のある人だ、しかし、わずかばかりの。来なかった人々は、ものの有り余った人だ、絶対権力、権威のある人々は来なかった。イエスのベツレヘムでの誕生物語の構図でもある。  
今週の一句
馬小屋の 誕生皇帝 ダリヤかな

―もとゐ―


 2015年12月20日(日)
 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章39節-45節

1,39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1,40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1,41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1,42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1,43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1,44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1,45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」


 目覚めて、時の徴を見分けなさい、で始まった待降節も大詰めを迎えた。洗礼者ヨハネやイエスはそれぞれその神の呼びかけに応えた。「今、ここで何をなすべきか。」

 エリサべトやマリアも、今、何をすべきかが分かった。授けられた子の命を守り、育てることに力を合わせること。神の慈しみはそこに注がれる。  
今週の一句
公園の 炊き出し並ぶ 聖夜かな

―もとゐ―


 2015年12月25日(日)
 主の降誕(日中)

 ヨハネによる福音書1章1節-18節

1,1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1,2 この言は、初めに神と共にあった。
1,3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1,4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1,5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1,6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1,7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1,8  彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 
1,9  その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1,10  言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 
1,11  言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 
1,12  しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 
1,13  この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 
1,14  言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 
1,15  ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 
1,16  わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 
1,17  律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 
1,18  いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 

 「初めに言葉があった。」私がこの世に誕生したのは、言葉、親の呼びかけがあったから。何々ちゃん、と呼ばれたから私はこの世に存在しはじめた。「光あれ」と神が呼んだので、光があったと創世記は記す。そして光が闇を分けたように、私は呼ばれ、名付けられて、生きる意味が与えられた。エリサべトは石女であったが洗礼者ヨハネの母となった。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」

 同じく、マリアは「おめでとう、マリア」と呼びかけられ、イエスの母となった。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださったからです。」

 神は私を呼び出してくれます。無であった私に生きる意味、使命を与える方をキリストと呼び、その誕生を祝うことは同時に私の誕生、初めを祝うのです。


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