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2015年12月6日(日) 待降節第2主日 ルカによる福音書3章1節-6節
徴を見分けなさい、目を覚ましていなさい。洗礼者ヨハネはこの神の言葉に応え、立ち上がった。「回心せよ、神に立ち返れ」と社会の上層部に叫びを上げた。パックス・ロマーナ(ローマの平和)ローマ帝国の圧倒的軍事力の前に直轄領とされたユダヤは忍従を強いられ、99%の貧しい人々は重税と律法に塗炭の苦しみに喘えぎ、人として粗末に扱われていた。それに対し、指導者階級は保身に汲々として民衆の苦しみを放置していた。 人は神の前では平等だ、との神との契約に生きるユダヤ教徒であるヨハネは、古の預言者と同じく、徴を見分け目を覚まして、その神からの呼びかけに立ち上がったのだ。 |
2015年12月13日(日) 待降節第3主日 ルカによる福音書3章10節-18節
洗礼者ヨハネは荒れ野で叫んだ。「回心せよ」と。回心とは神以外のものに従っているっことから神に従うことへの方向転換だ。これは、「目を覚ましなさい」「徴を見分けなさい」に通じる。それゆえ、生活上の具体的あり方を改めること。叫びを聞いた人々はヨハネに「何をしたらよいのか」と尋ねた。ヨハネは具体的に答えている。しかし、ヨハネのもとに来た人々は所謂、中流階級、持っている人、権利のある人、強制力のある人だ、しかし、わずかばかりの。来なかった人々は、ものの有り余った人だ、絶対権力、権威のある人々は来なかった。イエスのベツレヘムでの誕生物語の構図でもある。 |
2015年12月20日(日) 待降節第4主日 ルカによる福音書1章39節-45節
目覚めて、時の徴を見分けなさい、で始まった待降節も大詰めを迎えた。洗礼者ヨハネやイエスはそれぞれその神の呼びかけに応えた。「今、ここで何をなすべきか。」 エリサべトやマリアも、今、何をすべきかが分かった。授けられた子の命を守り、育てることに力を合わせること。神の慈しみはそこに注がれる。 |
2015年12月25日(日) 主の降誕(日中) ヨハネによる福音書1章1節-18節
「初めに言葉があった。」私がこの世に誕生したのは、言葉、親の呼びかけがあったから。何々ちゃん、と呼ばれたから私はこの世に存在しはじめた。「光あれ」と神が呼んだので、光があったと創世記は記す。そして光が闇を分けたように、私は呼ばれ、名付けられて、生きる意味が与えられた。エリサべトは石女であったが洗礼者ヨハネの母となった。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」 同じく、マリアは「おめでとう、マリア」と呼びかけられ、イエスの母となった。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださったからです。」 神は私を呼び出してくれます。無であった私に生きる意味、使命を与える方をキリストと呼び、その誕生を祝うことは同時に私の誕生、初めを祝うのです。 |
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