ももちゃんの一分間説教



今週の一句
白きすぢ 追い続ければ 秋の空

―もとゐ―


 2015年11月1日(日)
 諸聖人

 マタイによる福音書5章1節-12節

5,1 〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5,2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5,3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5,5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5,6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5,7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5,8  心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5,9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5,10  義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5,11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5,12  喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 

 これまでの「一番偉い者になりたい」のイエスの教えから、イエス自身この世的価値に捕らわれていないことが分かる。弟子たちの反対にもかかわらず子どもや盲人バルティマイの受け入れる姿、仕えられることより仕えることを優先する姿勢、金持ちを誉めるより、足らないところを指摘する遠慮のなさ、競合する者を排除せず仲間になること。小さい者を尊重すること、などは世間的常識から外れている。これらから、このイエスがよって立つところは世間ではなく神の前であることが分かる。

 世間では人が所有しているものに価値を置く。金、地位、名声、マイホーム、マイカー、資格、等々。だから、弟子たちは位や権力を欲し、そのために邪魔なものを排斥し、金もちは永遠の命を手に入れようとした。他方、イエスはこの世から価値のない者たち、つまり、何も持たない人々を大切にし、それによって命すら手から放した。神によって生きる、神の前に生きるとは、この世の執着から離れること、掴んだもの、握っているものを放し、空の手になること、持つものがなければ、子どもを抱きしめ、盲人バルティマイを迎えられるのだ。そのような人をイエスは世間的には無一物で価値がないけれど、神の前では幸いと呼ぶ。 
今週の一句
収穫祭 葡萄棚染まる 人の群れ

―もとゐ―


 2015年11月8日(日)
 年間第32主日

 マルコによる福音書12章38節-44節

12,38 〔そのとき、〕イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12,39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12,40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12,41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12,42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12,43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12,44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 イエスは質問に答えて、人の生きる最高の指針(律法のこと)は「神を愛する」ことと教えられた。しかし、それと同等として「隣人愛」を教えた。それを具体的に説明するため、律法学者と貧しいやもめの例を出された。前者は、自他共に認めるように、律法を知悉し律法に従って日常生活を送っていた。しかし、他方では、熱心さのゆえに、やもめのような律法を守れない人々を差別し、搾取していた。その金の余剰を神殿に献金していた。後者のやもめは聖書では貧者の代表例だ。貧しいが故に律法を守れないのに律法学者たちからは「罪人」と呼ばれ、蔑視され不平等に扱われていた。彼女の有り金全部はたいた献金は神への叫びなのであった。出エジプト記には神がエジプトで奴隷にされていた民の叫びを聞いて救い出したと、とある。

 律法学者は神を愛しながら、神の思い、願いを知らなかった。神が虐げられた人々を大切に扱われつ方であることを。神を愛するなら、やもめの叫び、盲人バルティマイの叫びに耳を傾けることではないか、とイエスは語るのだ。
今週の一句
甘柿や 口に拡がる 幼き日

―もとゐ―


 2015年11月15日(日)
 年間第33主日

 マルコによる福音書13章24節-32節

13,24 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13,25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13,26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13,27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
13,28 いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13,29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13,30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13,31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
13,32 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

 世の終わり、あるいは、「死」はいつ訪れるか分からないので、目を覚ましていなさい、が今日の福音だ。つまり、一日一日を大事に生きろ、とのことか。貧しいやもめは持ち金すべてを賽銭箱に入れた。やもめは明日のことを考えなかったのか。金持ちは、全財産を売り払って、貧しい人々に与えられなかった。それは、明日の生活を考えたからか。バルティマイの叫び声をイエスが聴かれたのは今日の出会いを失いたくなっかたからか。世の終わり、「死」を決定的時と言い換えられる。イエスと歩むことはいつも「目を覚まして」決定的時を見失わず歩くことなのだ。 
今週の一句
帰り道 錦彩る 濡れ落ち葉

―もとゐ―


 2015年11月22日(日)
 王であるキリスト

 ヨハネによる福音書18章33節b-37節

18,33 〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 ヨハネ福音書の記者はイエスを真理の証し人と言う。また、イエスは道、真理、命と言う。(ヨハネ14・6)では、その真理とは何か、ピラトの言うように。イエスは真理とは罪の奴隷であった者を自由にする、と言う。(ヨハネ8・32)罪とは神以外のものに従うのが聖書の意味だから、例えば、富、権力などの物欲に従うことから自由にするのが真理なのだ。イエスの生き様を見るなら、重荷に押し潰されたガリラヤ民衆を立ち上がらせようと、奔走しついには命まで捨てられたその姿を真理と言えようか。教会がそのイエスを「王」とよぶなら、教会はイエスの生き様に倣うことを宣言するのだ。
今週の一句
孫が蹴り 爺のキーパー 舞う紅葉

―もとゐ―


 2015年11月29日(日)
 待降節第1主日

 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節

21,25 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
21,26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
21,27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
21,28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
21,34 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21,35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21,36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 教会の暦では今日から新しい年となる。新しい年を迎える時は、いつもワクワクする。何か起きる、変わることへの期待だからだろう。救い主=キリストの到来をガリラヤの民衆は今日か今日かと待ち焦がれていただろう。相次ぐ戦乱、飢え、恐怖、重税、律法主義によって生き絶え絶えの人々、神の介入しかこの惨状を変えてくれるk9おとはないだろう、との絶望からの叫び、現在のシリアやアフリカの名もなき人々、日本の貧困の子どもたちの思いも同じだろう。

 待降節はその闇の光り、絶望のなかの希望があり、世界は変わるというメッセージだ。そして、私たちはその変革へ関わる者になる決意を新たにする時なのだ。 


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