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2015年11月1日(日) 諸聖人 マタイによる福音書5章1節-12節
これまでの「一番偉い者になりたい」のイエスの教えから、イエス自身この世的価値に捕らわれていないことが分かる。弟子たちの反対にもかかわらず子どもや盲人バルティマイの受け入れる姿、仕えられることより仕えることを優先する姿勢、金持ちを誉めるより、足らないところを指摘する遠慮のなさ、競合する者を排除せず仲間になること。小さい者を尊重すること、などは世間的常識から外れている。これらから、このイエスがよって立つところは世間ではなく神の前であることが分かる。 世間では人が所有しているものに価値を置く。金、地位、名声、マイホーム、マイカー、資格、等々。だから、弟子たちは位や権力を欲し、そのために邪魔なものを排斥し、金もちは永遠の命を手に入れようとした。他方、イエスはこの世から価値のない者たち、つまり、何も持たない人々を大切にし、それによって命すら手から放した。神によって生きる、神の前に生きるとは、この世の執着から離れること、掴んだもの、握っているものを放し、空の手になること、持つものがなければ、子どもを抱きしめ、盲人バルティマイを迎えられるのだ。そのような人をイエスは世間的には無一物で価値がないけれど、神の前では幸いと呼ぶ。 |
2015年11月8日(日) 年間第32主日 マルコによる福音書12章38節-44節
イエスは質問に答えて、人の生きる最高の指針(律法のこと)は「神を愛する」ことと教えられた。しかし、それと同等として「隣人愛」を教えた。それを具体的に説明するため、律法学者と貧しいやもめの例を出された。前者は、自他共に認めるように、律法を知悉し律法に従って日常生活を送っていた。しかし、他方では、熱心さのゆえに、やもめのような律法を守れない人々を差別し、搾取していた。その金の余剰を神殿に献金していた。後者のやもめは聖書では貧者の代表例だ。貧しいが故に律法を守れないのに律法学者たちからは「罪人」と呼ばれ、蔑視され不平等に扱われていた。彼女の有り金全部はたいた献金は神への叫びなのであった。出エジプト記には神がエジプトで奴隷にされていた民の叫びを聞いて救い出したと、とある。 律法学者は神を愛しながら、神の思い、願いを知らなかった。神が虐げられた人々を大切に扱われつ方であることを。神を愛するなら、やもめの叫び、盲人バルティマイの叫びに耳を傾けることではないか、とイエスは語るのだ。 |
2015年11月15日(日) 年間第33主日 マルコによる福音書13章24節-32節
世の終わり、あるいは、「死」はいつ訪れるか分からないので、目を覚ましていなさい、が今日の福音だ。つまり、一日一日を大事に生きろ、とのことか。貧しいやもめは持ち金すべてを賽銭箱に入れた。やもめは明日のことを考えなかったのか。金持ちは、全財産を売り払って、貧しい人々に与えられなかった。それは、明日の生活を考えたからか。バルティマイの叫び声をイエスが聴かれたのは今日の出会いを失いたくなっかたからか。世の終わり、「死」を決定的時と言い換えられる。イエスと歩むことはいつも「目を覚まして」決定的時を見失わず歩くことなのだ。 |
2015年11月22日(日) 王であるキリスト ヨハネによる福音書18章33節b-37節
ヨハネ福音書の記者はイエスを真理の証し人と言う。また、イエスは道、真理、命と言う。(ヨハネ14・6)では、その真理とは何か、ピラトの言うように。イエスは真理とは罪の奴隷であった者を自由にする、と言う。(ヨハネ8・32)罪とは神以外のものに従うのが聖書の意味だから、例えば、富、権力などの物欲に従うことから自由にするのが真理なのだ。イエスの生き様を見るなら、重荷に押し潰されたガリラヤ民衆を立ち上がらせようと、奔走しついには命まで捨てられたその姿を真理と言えようか。教会がそのイエスを「王」とよぶなら、教会はイエスの生き様に倣うことを宣言するのだ。 |
2015年11月29日(日) 待降節第1主日 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節
教会の暦では今日から新しい年となる。新しい年を迎える時は、いつもワクワクする。何か起きる、変わることへの期待だからだろう。救い主=キリストの到来をガリラヤの民衆は今日か今日かと待ち焦がれていただろう。相次ぐ戦乱、飢え、恐怖、重税、律法主義によって生き絶え絶えの人々、神の介入しかこの惨状を変えてくれるk9おとはないだろう、との絶望からの叫び、現在のシリアやアフリカの名もなき人々、日本の貧困の子どもたちの思いも同じだろう。 待降節はその闇の光り、絶望のなかの希望があり、世界は変わるというメッセージだ。そして、私たちはその変革へ関わる者になる決意を新たにする時なのだ。 |
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