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2015年10月4日(日) 年間第27主日 マルコによる福音書10章2節-16節
神の国は子どものものだ。これは、「貧しい者は幸いだ。」に通じるイエスの願う神の意志だ。子どもは権利を無視された者の代表だ。生産者としての価値しかなかったガリラヤの民衆は権力者から虐げられ、虫けらのように扱われていた。その彼・彼女らの人権を回復しようとイエスは神の意志に従って働かれた。当時の離婚も(申命記24・1−4を参照)、女性の人権、命を奪うものであったから、イエスは「結婚」について、「人間とは何か」を旧約聖書の人間論から再考しろと促している。 |
2015年10月11日(日) 年間第28主日 マルコによる福音書10章17節-30節
一番になりたい、他派への弾圧、小さい者への批判、離婚の正当性を主張、等。何かにつけ自分を偉い者にしたがる私たち。更に、現生の贅沢な暮らしに満足せず永遠の命まで願う私たちにイエスは控えめに言う。「欠けているものがある。」このイエスの声に襟を正したい。 |
2015年10月18日(日) 年間第29主日 マルコによる福音書10章35節-45節
弟子たちはまたもやイエスの受難の道への招きに対し理解せず、己の立身出世をイエスに申し出ている。それは金持ちが永遠の命を願ったことに通じる。イエスは従う弟子たちの価値観に疑問を投げかける。一番偉いのは、子どもを受け入れ仕えることだと。イエスの目には一番と言われている内外の権力者の姿が映っていた。宮廷での贅沢な暮らし、権力維持のための権謀術数、残虐な暴力や弾圧、に較べ民衆の疲弊した惨めな生活。イエスはおかしい、間違っていると思った。民衆のこの惨めな暮らしを変え、誰もが大切にされるよう尽力することこそが一番と言われる人の務めではないかと。何故なら、神は誰をも偏り見なく、平等の社会を築くよう人間に知恵を与えられ、モーセやエレミヤをその指導者として遣わされたのではなかったか。けれども、権力者から受け入れられず排斥されて受難の道となったではないか。お前たちは、この道について来るのかと、弟子や金持ちに問いかけるのであった。同様に、キリスト者の私たちに。 |
2015年10月25日(日) 年間第30主日 マルコによる福音書10章46節-52節
イエスの道を歩むとは「一番」になること、永遠の命に至ること。それは、子どもを受け入れ、仕えること。小さい人々を躓かせないこと。「妻」と言う他者と共に生きること。「貧しい人々」と関わること。そして、バルティマイのような見捨てられた人の叫び声に耳を傾け仲間に加えること、とイエスは示される。 |
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