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2015年9月6日(日) 年間第23主日 マルコによる福音書7章31節-37節
神のことばより人の言葉、父祖からの言い伝えに従いがちな私たち人間。世間は常識的人間と言い、評価する。そして、常識的人間としてそれから逸脱した人を裁きがちとなる。しかし、そこには、自分の主体的判断より、世間の目、大勢に従う言わば思考停止になっているのではないか。 イエスはそうした思考停止した私たちの耳や目を開き、もの言えぬ状態から一歩出るよう勧めている。イエスはシロ・フェニキアの外国女性への関わりや耳と舌の不自由な人への関わり、他、「罪人」と呼ばれる遊女、取税人との関わりを通して、人の言い伝えより神の掟、即ち、「隣り人を自分のように愛せよ」の呼びかけに応えるよう、私たちの目、耳、舌、心の不自由さから解放されることを願っている。 |
2015年9月13日(日) 年間第24主日 マルコによる福音書8章27節-35節
豪雨災害がまた起きた。人生の一寸先は闇、人は幸いに導く言葉を求め探す。占い等が典型だ。迷える人々を誘う国の指導者たちはおしなべて言う、「私こそ、国民の生命、財産を守り、幸せにする。だから、私に従え」と。イエスへの信仰告白と言われることはそれ似る。つまり、私を幸せに導く人はイエスだと他の数多の人物、言説から選ぶこと。では、何故イエスなのか。まず、福音書での出会いがある。次に、イエスと出会った人との交わり、更に、歴史上のイエスの影響を知ることから、イエスの生涯が普遍的価値であること、例えば、イエスの人権思想に与えた影響などから、これは本物だと気づくなどの極めて知的な作業だ。キリスト教ではそれを「聖霊」の働きと呼ぶ。(「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」イザヤ11,2)言わば、一生を託す人を選ぶのだから、単に「信じなさい」では『鰯の頭も信心』となってしまう。イエスを深く学ぶことを今日の箇所から教えられる。 |
2015年9月20日(日) 年間第25主日 マルコによる福音書9章30節-37節
イエスの生涯を「神の国」の宣教活動と福音書は記している。「神の国」は空間を指すのではなく、支配を意味するから、神の主権が貫徹されていることと言える。神の意志の実現されていることだ。しかし、それは、聖書では人間が神に応答する限り実現される、と言う。神に背けば、混乱と滅亡を齎すと教える。 従って、イエスの目指す「神の国」とは「子どもに仕えるところ」、つまり、誰もが不平等、差別されず、尊重され平等にされるところのこと。一番偉くなるとは、子どもに代表される権利を奪われた人々の人権を回復することに努めること。 アベ政権の目指すところとは大いに違う。だから、キリスト者は拒否しなければならない。 |
2015年9月27日(日) 年間第26主日 マルコによる福音書9章38節-43節、45節、47節-48節
先週の誰が一番偉いかに続き、今日の箇所は、教会内外の問題を扱っている。先週は、いわば、教会内の権力争いでしょう。今回は、イエス亡き後の教会には多くの分派があったと考えられる。既に、使徒行伝を見れば、ペテロ、パウロ、ステファノ、などの分派が見られる。イエスもユダヤ教ナザレ派と言われるように、死後、イエス派マタイとかイエス派ヨハネと福音書から分かる。今日の後半は、教会内部のある人を「小さい者」扱いにすることへの勧告でしょう。それら三つの箇所から読み取れる共通のことは、イエスの伝える「神の国」とは何かということ。 イエスが「神の国」到来を願ったのは、ガリラヤの民衆の苦難に満ちた生活を人間らしい生活に変えたいと欲したから。ガリラヤの民衆は持てる者、力のある大きな者の搾取の対象でしかなかった。その価値が無くなれば、捨てられるだけであった。ガリラヤ民衆が平等に扱われ、大切にされるところが「神の国」だ。つまり、一番上の者は従わない分派を抑圧し、一番の者は他者を小さくし虐げるのが世の常だから、それは、神の国ではない、従って、教会もそあってはならないのだ。神の前では誰もが平等に大切にされるのだから教会もそれを目指そうではないか。 |
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