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2015年8月2日(日) 年間第18主日 ヨハネによる福音書6章24節-35節
イエスからパンを分けられたガリラヤの飢えた人々は、今日のパンを求めてイエスを追っかける。慢性的な飢えにある彼らに、イエスがパンではなく永遠の命に至るパンを求めろとは、まさか言わないだろう。と言うことは、イエスの話す相手が飢えた人ではなく、食べられる余裕のある人たちだと推測できる。同時に、イエスを求める人が前者から後者に変わった、とも推測できる。つまり、イエスの当初の運動、パンが食べられるようにすることから、精神的必要を満たす運動へと変わったことを今日の箇所から読み込むのは行き過ぎだろうか。 さて、ともあれ、現代日本人キリスト者のイエスに求めるものに通じるだろう。「永遠の命」、即ち、価値ある人生にするには、イエスを天からのパン、即ち、み言葉として認め、それに従って生きる、ことを教えている。イエスのみ言葉に従うとは、命と人権を大切にすることであるゆえ、貧困の解消、「戦争、憲法改悪」を阻止することにもなる。 |
2015年8月9日(日) 年間第19主日 ヨハネによる福音書6章41節-51節
ヨハネ福音書では再三イエスは私たちの人生を豊かな価値あるものにする天からの糧、神のことば、道しるべだと言う。ヨハネ共同体(ヨハネ福音書を生み出した)は紀元70年のエルサレム滅亡後、キリスト教徒はシリア、他の東アジアへ離散し、また、パリサイ派主導のユダヤ教再編によるキリスト教徒迫害という混乱期にあった。そのヨハネ共同体はイエスこそが現状を打破する神の言葉だと見なした。それでは、何を持ってイエスが神の言葉であるとヨハネ共同体は考えたのか。福音書ではイエスの十字架刑死を「神の栄光」と呼び、あるいは、友のための「死」と言う。「神の栄光」とは神が神として讃えられること、つまり、神以外に従わないことであるから、イエスが神に従ったこと、即ち、他者の命が充実するように生きたことが「神の栄光」であり、そして、現状を新たにする指針だと認めたのだ。今日にキリスト者にとってもそのイエスに倣うことが現状を変えて行くことになる。 |
2015年8月16日(日) 年間第20主日 ヨハネによる福音書6章51節-58節
パン(=現生利益)を求めにイエスのところへ来た人々に、この世を越えた至上の価値をイエスが求めたように、イエスに倣うこと(食べる、飲むと言い表している)を、ヨハネ福音書は勧めている。 一寸先は闇、死の陰の谷と言われる人生を意味あるものとするには、この世のことばではなく神のことば、指針が必要。荒野でのマナの故事は、生きるにはパンや物質は当然必要であるが、どう対処すべきかの神からの「知恵」「ことば」がなくてはならないことを教えている。即ち、「毎日、各自に必要な分だけ集めなさい」のことばがマナと共に神から与えられている(出エジプト記16章15節-16節)。 申命記にはその故事を次のように意義づけている。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(8章3節)次の言葉もパンを独り占めしがちな私たちへの神のことばが与えられている。「穀物を収穫するときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」(レビ記19章9節-10節) イエスはパンを分け、命を与えられた。そのイエスを目標に生きることをヨハネは教える。 |
2015年8月23日(日) 年間第21主日 ヨハネによる福音書6章60節-69節
ヨハネ福音書において、イエスはユダヤ人との対話を通して、読者を異次元に導こうとする。渇く水から渇かない水へ、胎内に二度入ることから新しく生まれ変わることへ、飢えるパンから飢えないパンへ。それらは、イエスの生涯を象徴する。ファリサイ派のように律法を守ることに熱心が故に、守れない貧しい人々を厳しく裁き、後者の不平等な境遇を変えようとしない利己的生き方ではなく、貧しい人々が幸いな人生を送れるように労力を惜しまなかった他者と共に生きたのがイエスであった。現代世界の格差拡大を拒否する生き方である。私たちはそのイエスに共感し憧れる。ペテロの言うようにイエスは「永遠の命」に導く方なのだ。 |
2015年8月30日(日) 年間第22主日 マルコによる福音書7章1節-8節、14節-15節、21節-23節
イエスは神のことば(律法とも呼ばれる)に忠実に従った。元来、神のことばは守る人を命と幸いに導くのであった。しかしながら、イエス時代には、神のことばを解釈した人の言い伝え(相対的にしかすぎない)が絶対的になり、人を裁き、死と災いをもたらすものとなっていた。守れない人々は「汚れた者」「罪人」と呼ばれ、社会的不平等に扱われていた。まさに、人の心が人を不幸にしていたのだ。イエスはその相対的でしかない人の言い伝えに固執することから、幸いと命に導く神のことばに耳を傾けることを勧めたのだ。人の現実的価値に従うのではなく、神の示す価値に従うことを。目先の利益ではなく、未来次世代に渡せる価値を求めることをイエスは教えたのだ。 |
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