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2015年6月7日(日) キリストの聖体 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節
ヘブライと言われる人々はこの世の権力者に従うのではなく、この世を越えた「神」に従うことを選んだ。それを神との「契約」と言う。イエスもその一人で、貧しく虐げられた者たちの生命と人権が全うされるようにとの神の言葉(生き方の指針)に応えようとした。その生き様に魅力を感じ従う者が出てきた、即ち、弟子と呼ばれる人たちだ。やがて、イエスの言行は権力者から秩序を乱すとして睨まれ処刑されてしまった。弟子たちは長い苦闘の結果、イエスの遺志を引き継ぐ者として集まった。言わば、イエスの生き様に倣う契約をイエスと交わすイエスグループとして再出発した。「契約」には契約者同士が食事を共にすることが不可欠だ。イエスグループは今は亡きイエスとの契約を更新する場、再締結儀式として、晩餐を行った。イエスの体と血を記念するとは、イエスの生きざまに倣うことを意味する。後にこの晩餐はミサと呼ばれ、その参与はイエスグループが何であり、何を目指すかを再確認し再出発することを言う。 |
2015年6月14日(日) 年間第11主日 マルコによる福音書4章26節-34節
「神の国」と訳されている言葉は、もともと「神の支配」という意味。つまり、いわゆる「国」と言う空間・場所を指すのではなく、状態を指す。言い換えれば、「神が神とされる」様のこと。イエスの時代、大祭司はじめ支配者たちは神にではなくローマ帝国に仕え、現状維持に汲々としていた。また、神のことばである律法を人に対して「正しい人」と「罪人」に分け、それゆえ、貧しい人たちは税金に加え背負いきれない重荷に喘ぎ倒れていた。 その「神を神としない」背反の状況に対し、イエスは神が神とされるように、すなわち、人々が神の言葉こそ価値ありとして、神との契約を交わし、守って生きることに忠実であろうとした。神の言葉は、人々の誰もが尊重され平等に生きることを指示しているから、重荷を解くよう働かれたのだった。しかし、その働きは芥子だねのように微小であった。けれど、2000年後の今、その人権思想は実りつつある。キリスト教会は後に続こう。 |
2015年6月21日(日) 年間第12主日 マルコによる福音書4章35節-41節
嵐を鎮めるイエス、何とすごい、神的力を持つ方、何があってもこの方について行けば幸い、と福音は語る。もう少し、掘り下げて見てみよう。背景には、初代教会の困難な姿が見られる。ローマ軍によるエルサレム神殿滅亡後、ユダヤ人は全世界に散らばって行った。キリスト教会も同じくアジアやギリシャなどへ逃れて行った。行く先々で、様々な困難に遭ったことは想像に難くない。マルコ13章にある迫害も受けただろう。あるいは、教会内部の争いもあっただろう。ともかく、イエス死後、つまり、リーダーなき教会が困難をいかに乗り切るかが大問題であった。まさに、「嵐」だった。そんななか、やはり、頼るべき方はイエスしかいない、生前のイエスを思いだし、イエスも苦難に遭われたことを銘記し、それでもイエスが目指したことを追求し、繰り返し、繰り返しイエスを振り返ることが最善だ、と言う。イエスへの「信仰」とは、元々、「信頼」の意味であり、それは、「岩」、「固い」、「確かさ」を表すヘブライ語から来ている。詩編62には神を「岩」、「救い」「砦の塔」と呼び、「決して動揺しない」と歌っている。すなわち、イエスこそ「岩」、「救い」であり、そのイエスに従って行くことが盤石な生き方であると、言うこと。 |
2015年6月28日(日) 年間第13主日 マルコによる福音書5章21節-43節
「信仰」と訳された言葉は元々、岩、岩盤、固いと言う言葉から派生した。イエスを土台として人生を構築するのがキリスト者だ。さて、今日のイエスの病気治癒と蘇生の物語り、旧約聖書のエリヤ、エリシャの「聖者伝説」をなぞって、イエスは偉大な預言者と主張している。読後はイエスは凄い人だ、めでたし、万歳、となるはずだが、イエスの神的能力を称賛するだけの話ではない。そこには、イエスを盤石とした関わり方、即ち、「信仰」の有り様が前回同様問われている。 長血に苦しめられた女性とヤイロが対照されている。前者は無一物、社会から裏切られ何も頼るもののない人、後者は、地位・名誉・暮らしのある人、前者に比べれば途方もなく恵まれた者。女性は必死、後者は余裕。女性の必死さは道を開く、後者のいい加減さは、諦念となる。 私たちは、イエスを必死に求めているだろうか。平和・人権を必死に求めているだろうか。 |
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