ももちゃんの一分間説教



今週の一句
空青く 揺れ降り注ぐ なんじゃもんじゃ

―もとゐ―


 2015年5月3日(日)
 復活節第5主日

 ヨハネによる福音書15章1-8節

15,1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15,2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15,3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15,4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15,5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15,6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15,7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15,8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 先週に続きヨハネはイエスが誰であり、従う私たちは何かを象徴的に語る。即ち、イエスは葡萄の木であり、私たちは枝である、と。特に、イエスと私たちの関係を「留まる」(日本語訳では「つながる」)と表している。それは、旧約聖書での神と人との関係を「契約」とすることから来ている。

 神はヘブライの人々に呼びかけた。私に従うのか、他の神々に従うのか、選びなさい。これまで、私があなたがたにして来たことを思い浮かべて、決めなさい、と(ヨシュア記)。私たちは人生を幸いに豊かにしたいと願う。では、その幸い、豊かさとは何か、物質的経済的なことか、精神的なことかで進むべき方向が違う。

 今日の問題で言えば、戦争・原発依存の道か、人権第一かの選択となる。イエスに出会った私たちはイエスにこそ人生の目標、価値を見いだした。そして、従うことを決意した。イエスに「留まる」とは、イエスにおいて人生を築いて行くことだ。
今週の一句
深き夜 静寂破りし 蛙かな
―もとゐ―

 2015年5月10日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書15章9-17節

15,9 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15,10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15,11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15,12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15,13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15,14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15,15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15,16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15,17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 イエスに「つながる」、あるいは「留まる」とはイエスが示された人間の生き方、社会の在り方を自分の人生の指針として選び取り、従って行くことをイエスと約束することだ。それをイエスは次のように言う、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

 約束を交わすには、双方が約束の内容と互いのことを理解し、自由な決断で結ぶことが必要であるから、まず、双方が自立した成人であり、対等でなければならない。強制や脅かしによって、不平等に結ぶのは約束ではなく、単なる命令でしかないから。だから、イエスは「留まる」人を「友」と呼ぶ。

 イエスは約束の相手を「友」と呼ぶくらい相手を知っている。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネによる福音書10・14)それは、相応しくない、わがまま、無知、背き、欠けの多い人にもかかわらず、そう呼ぶのは、イエスがそうなってほしい期待をこめているのだ。だから、約束を結ぼうとする私たちは、「友」に相応しい自立した人になるため絶えず回心し、約束を更新し前に進まなければならない。実にミサはその約束再締結の儀式なのだ。 
今週の一句
万緑や 雨に洗われ 目に沁みて


―もとゐ―


 2015年5月17日(日)
 主の昇天

 マルコによる福音書16章15-20節

16,15 〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16,16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16,17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16,18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
16,19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16,20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 今日のマルコ福音書の箇所は後世の付加だと言われている。元来、同福音書は復活のイエスとの出会いは、ガリラヤであるとの天使の告げで閉じられている。十字架刑死したイエスとは誰か、また、福音とは何かを知るのは、自らガリラヤへ出向き、苦難にある人々との交わりに見出せるとのマルコの主張なのだ。

 「昇天」はイエスが神の右の座に着かれた、すなわち、万物が復活した(死に打ち勝たられた)イエスを「主」、従うべき方と(故)認めたことの意味だ。それをマルコの視点から言い換えるとするなら、イエスが生きた苦難に喘ぐ人々と寄り添い、苦難を取り除いて行く姿が「死」を克服するのであり、人が目指す生き方ではないか。イエスこそが人生の模範、先達者として従う方、つまり「主」であることとなるのではないか。 
今週の一句
水張り田  燦めき踊る 30度℃の陽

―もとゐ―


 2015年5月24日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書15章26節-27節,16章12節-15節

15,26 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15,27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
16,12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16,13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16,14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16,15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 聖霊降臨は弟子たちに聖霊が働きかけ、恐れていたユダヤ人を前にして、堂々とイエスが罪をゆるすメシア、救い主であることを宣言した、出来事と使徒行伝に書かれている。それは、何を表しているのか。

 弟子たちはイエスの十字架刑死を目の当たりして、逃げ隠れ解散してしまったはずだ。にもかかわらず、再び集まり宣教をはじめた。何故か、弟子たちは、イエスの刑死とそこに至るイエスの生涯が何であったのか理解し、それは人々に伝えなければならない意味ある事、価値ある事、と理解し、納得したことがあったにちがいない。

 たとえば、尊敬する人物との出会いによって、是非、その人を他の人に伝えたいと思うのは、理解し了解したからであって、分からない、不可解、納得できないなら紹介できないし、その気もおこらないと同じ。

 弟子たちは、分かったから、納得したから、絶望から希望へ、死から生命へ立ち上がれたのだ。「聖霊」とは「風」、「息」を意味している。また、知恵と識別、思慮と勇気、主を知り、畏れ敬う霊。(イザヤ11・2)と言われている。従って、無理解で、逃げ惑った弟子たちが、風の勢いによって、新たな息を吹き込まれることによって立ち上がったように、つまり、イエスのことを理解し納得し証しする者に立ち上がった出来事を言う。 
今週の一句
雨不足 苗挿せれども 蔓伸びず

―もとゐ―


 2015年5月31日(日)
 三位一体の主日

 マタイによる福音書28章16節-20節

28,16 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28,17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28,18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28,19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28.20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 カトリック教会では聖堂に入るときや祈りの初めと終わりに、食事の前後、始業終業の際に、等々「父と子と聖霊のみ名によって」と十字を切る。何故か。魔除けの徴ではないだろう。たとえ魔除けであったとしても、病気や災害を避けることはできない。

 人は生きて行くとき、何か頼るものを求める。お金、力、健康があれば幸せになると。怪しげな健康食品がよく売れるのはその一例であろう。聖書の民は宇宙を越えた絶対者「神」に、良き羊飼いを求めた。宇宙内のものは被造物、有限な偶像に過ぎないと見なした。そして、神の示される人の生き方、社会の在り方を最高規範として受け入れ、それに(神のことば、掟、律法と呼ばれる)従って生きることを神と約束した。十字を切る、とは何事においても、その神、イエスの生き様から教えられた方に基づいて生きることを示すのだ。 


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