ももちゃんの一分間説教



今週の一句
花開き 安堵の拡がり 浮き心

―もとゐ―


 2015年4月2日(木)
 聖木曜日 主の晩餐

 ヨハネによる福音書13章1節-15節

13,1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13,2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13,3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13,4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13,5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13,6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13,7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13,8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13,9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13,10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13,11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13,12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13,13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13,14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13,15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 カトリック教会は毎年、イエスの受難と復活を「聖なる三日間」と呼んで記念の祭を行う。何故なら、イエスの歩みを振り返ることによって、カトリック教会とは何であるかを想起し、何になろうと決意して未来に向かうのかを再確認するからです。第一日目の木曜日、イエスが弟子たちと最後の晩餐を行い、いわゆる、聖餐式を制定したことを思い起こす。聖餐式はイエスが示された新しい生き方を弟子たちが自分の人生の指針として受け容れ、それに従うことをイエスと約束したことの徴です。ヨハネ福音書にはイエスの生き方が示されている。即ち、「足を洗い」「愛し合う」ことです。ここに、カトリック教会が何であり、何になるかが示されている。 
今週の一句
花冷えや 人の旅立つ 駅ホーム

―もとゐ―


 2015年4月3日(金)
 聖金曜日 主の受難

 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節

18,1 〔夕食のあと、〕イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
18,2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
18,3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
18,4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
18,5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
18,6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
18,7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18,8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18,9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18,10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18,11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18,12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18,13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18,14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
18,15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18,16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18,17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18,18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
18,19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18,20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18,21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18,22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18,23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18,24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
18.25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18,26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18,27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
18,28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18,29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18,30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18,31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18,32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18,33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18,38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18,39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18,40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
19,1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19.2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19,3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19,4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19,5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19,6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19,7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19,8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19,9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19,10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19,11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
19,12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19,13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
19,14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
19,15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
19,16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。
19,17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
19,18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19,19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19,20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19,21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19,22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
19,23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19,24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
19,25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
19,26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19,27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
19,28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
19,29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
19,30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
19,31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19,32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19,33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19,34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19,35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19,36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19,37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
19,38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
19,39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
19,40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
19,41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
19,42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 第二日目は、イエスの十字架刑死を想起する。イエスの処刑はどの福音書でも、死刑にあたる罪を見出せない、理不尽な裁判であったと描かれている。ヨハネによれば、イエスの生涯は「足を洗い」、「愛し合った」ことだった。にもかかわらず、極刑死となった。この世は誰かを犠牲にして、一握りの人が生き残って行くのが常だ。例えば、福島の原発事故。都会は電気を大量消費して快楽に生活し、被災者はすべてを失い、避難生活か被爆を強いられている。つまり、イエスの十字架刑死はこの世の論理、利己主義によって起こされたと言える。イエスの死によって現状維持のできた人々がいたのだ。このイエスの十字架刑死を思い起こすカトリック教会は何になるべきなのか。 
今週の一句
花 冷たき雨に 無情知り

―もとゐ―


 2015年4月4日(土)
 復活の主日 聖なる徹夜祭

 マルコによる福音書16章1-7節

16,1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16,2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16,3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16,4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16,5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16,6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16,7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 第三日目、イエスの復活を想起する。つまり、十字架刑死したイエスは墓にではなく、ガリラヤに行きそこにおられることを。再度、カトリック教会が何であり、何を目指すのかを思い起こす時となる。この世の暴力性にイエスは殺されたが、それで終わりではない。イエスは今も将来もその暴力性(ガリラヤはその象徴の地)に抗い続け、暴力を超えて愛と共生の社会、即ち、「神の国」を目指して歩き続けているのだ、教会はそのイエスに続いて行くことを決意し祝うのが復活祭なのだ。 
今週の一句
水だまり 花散り浮かぶ 万華鏡かな

―もとゐ―


 2015年4月12日(日)
 復活節第2主日

 ヨハネによる福音書20章19-31節

20,19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20,21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20,22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20,23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20,24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20,25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20,26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20,27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20,28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20,29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20,30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20,31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 イエスは現状を変え、新風を吹かせた。創世記の冒頭にある「地は混沌で闇に覆われていた、その上を神の霊が漂い、ことばによって、混沌を形あるものに分けて行った。」の描写を彷彿させる。そして、まさに、絶望と恐怖のうちに沈んでいた弟子たちに「息を吹きかけ」て、立ち上がらせたことは同様ではないか。つまり、イエスの復活の出来事とは、新しい創造、人を旧い人(絶望、死)から新しい人(希望、生)へと生まれ変わる出来事ではないか。
今週の一句
花 友出発ちの 風の舞い

―もとゐ―


 2015年4月19日(日)
 復活節第3主日

 ルカによる福音書24章35-48節

24,35 〔そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、〕道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
24,36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24.37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24,38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24,39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24,40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24,41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24,42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24,43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24,44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24,45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24,46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24,47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24,48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

 先週のイエスがトマスに出現した話では、「復活」信仰とは「見ることではなく見ないで」信じることと言われる。つまり、死体の蘇生ではなく、イエスに出会った者が新たに生まれ変わること、トマスはイエスから示された生き方を真理と認め、それに向かって新しく生き始めることを言う。逃げ去った弟子たちが再び集まり、宣教に向かった復活物語りが示すと同じだ。今回のエマオへ帰る二人の弟子の物語では一層それを明らかにされる。ここでは「見る」のではなく「目が開かれる」、「理解する」の言葉で示している。十字架刑死したイエスが誰であり何であるかを、自分との出会い、交流、そして、旧約聖書の学びで目が開かれ、分かったとき、彼らはイエスの後を追うため、新しく立ち上がったのであった。イエスを知り、イエスから学び、生き直すことが私たちが新たになること、即ち、復活の出来事となる。
今週の一句
雨音や 夜更けに響く 蛙かな

―もとゐ―


 2015年4月26日(日)
 復活節第4主日

 ヨハネによる福音書10章11-18節

10,11 〔そのとき、イエスは言われた。〕わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10,12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10,13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10,14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10,15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10,16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10,17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10,18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 復活物語は私たちが誰に従うべきかを、新たに確認するためのものだ。女性たち、弟子たち、トマスやエマオへ帰ろうとした二人の弟子、等は心の目が開き、イエスに従う決心をする。そして、今日のイエスは「良き羊飼い」だ、の言表は私たちがついて行くイエスはそれに譬えられる人であることを示す。「羊飼い」のイメージは旧約聖書から類推できる。
詩編23篇の「死の陰を行くときの同伴者」としての羊飼い、エゼキエル34章では「悪い羊飼いとしての国の指導者たち」に対し「良き羊飼いである神」がその背反を告発している。

それらのことから、ヨハネ福音書の著者は、その時代紀元2世紀前後、ローマ帝国下、人生の「豊かな」「永遠な」「真理」の価値を求めるために、従うべき方は、皇帝でも大祭司でもなく十字架刑死したイエスであることを示そうとしたのではないか。今、日本人が従うべき人は誰かを教えているのではないか。 


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