ももちゃんの一分間説教



今週の一句
薄着して 先に立たない 早春賦

―もとゐ―


 2015年3月1日(日)
 四旬節第2主日

 マルコによる福音書9章2節-10節

9,2 〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9,3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9,4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9,5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9,6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9,7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9,8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9,10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

 四旬節は回心の時です。回心とは神と交わした契約を守れなかった自分を反省し、再び、契約を更新することです。契約の内容は、イエスを人生の模範、先達者として彼の提示する生き方、指針を価値と認め、それに従うことです。

 それではそのイエスとは誰か。今日の箇所では、モーセとエリヤに並ぶ者として描かれている。3者に共通するのは指導者です。しかも、モーセは人々の自律をエリヤは「バアル=富」という偶像崇拝からの解放を導いた指導者であったにもかかわらず、どこで死んだかもわからない、墓のないつまり記念碑を建て英雄、聖人として祀られなかった人として旧約聖書に書かれている。つまり、モーセ、エリヤと並んだイエスは重荷を負わされた人々の荷を軽くして、平等に扱われるように計らって、民衆から指示を得た指導者であったが、十字架刑と言う無残な最後となった。世間から、恭しく祀られる人ではなかった、と言うのです。

 イエスに従った、ガンジー、M・キング、マンデラも暗殺、投獄の生涯でした。彼らの願いも後に続いて来い、だったでしょう。

 そのイエスの後をついて行くというのですからキリスト者の道は容易ではない。だから、ペトロのように神殿を建てましょうとの安易な道を行きたくなるのです。回心とはどんなに険しくても改めてそのイエスに従うことを約束することなのです。 
今週の一句
啓蟄や 病院の待合 列絶えず

―もとゐ―


 2015年3月8日(日)
 四旬節第3主日

 ヨハネによる福音書2章13節-25節

2,13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2,14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2,15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2,16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2,17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2,18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2,19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2,20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2,21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2,22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
2,23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
2,24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
2,25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 過越し祭を祝うため、イエスはエルサレム神殿に上った。過越し祭は、ユダヤ人が過ぎ越しの羊を献げ、エジプトの奴隷生活からの解放を祝った。さぞや、エルサレム神殿は賑わっていただろう。ユダヤ全土だけではなく外国に住む多くのユダヤ人がお参りに来たから。

 従って、神殿にとって、絶交の収入獲得の祭りでもあった。日本でも、同様に、初詣は神社のかき入れ時。初詣客を相手の露天商も無数に出る。参拝客は一年の無病息災、五穀豊穣を祈願し、賽銭をする。参拝のついでに、遊んで金を使う。その意味で、神殿や神社は力ある者の宗教心の名を借りた搾取の場だ。

 さて、神と人の関係を「契約」と考える旧約聖書の民はそのような儀礼的関係を拒否する。すなわち、彼らは神が示された人間の生き方、社会のあり方への指針を最高規範として受け容れ、それに従って生活すること、神はその人間の忠実さに対し、「祝福と幸い」を与える、その相互の約束することが神と人との関係なのだ。しかし、人はその約束を破ってしまう。それを「罪」と呼ぶ。神から背反した人は悔いて、再び、自分の非を認め、ゆるしを神に願い、神との契約を交わす。詩編50,51篇はそのことを謳っている。それによれば、神が喜ばれるのは高価な犠牲ではなく「打ち砕かれた心」、他者と正しい関わりを持つこと。すなわち、神殿に詣でて犠牲を献げる儀式ではなく、神の言葉を守り従うことこそが大事なのだ。イエスの「神殿清め」は神殿を媒介することなく神と直接に対話する、神との契約に返ることを目的としている。しかし、神殿を支配する者たちからは睨まれ、ついには十字架刑に処せられることとなる。
今週の一句
曇り空 彩る梅に こころ浮き

―もとゐ―


 2015年3月15日(日)
 四旬節第4主日

 ヨハネによる福音書3章14節-21節

3,14 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3,15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3,16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3,17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
3,18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
3,19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
3,20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
3,21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 ヨハネ福音書では神殿にではなくイエスこそ人生を導く方、神から示された方であると証しする。「御子を信じる者が滅びないで永遠の命を得る」と。 永遠の命を得るとは「真理を行う」者であり、その行いはイエスに導かれる、と言う。

 つまり、イエスに忠実な者はイエスのような真理を行うと言うこと。それを同福音書ではイエスを「道、真理、命」と呼んでいる。更に、「ぶどうの木」の例えではイエスに繋がっている者は「わたしの掟を守る」と言われている。「わたしの掟」とは「互いに愛し合う」こと「友のために自分の命を捨てること」。

 イエスの神殿批判は、神殿に頼るとは、犠牲をささげること、礼拝するだけであって、生活、生き方はそのまま変わらないことに向けられている。しかし、イエスを「信じる」とは、犠牲をささげたり、礼拝をすることではなく、イエスに従うこと、即ち、イエスのように生きること、生活を変えること、とヨハネは教えている。 
今週の一句
深い闇 浮かぶ辛夷に 見守られ

―もとゐ―


 2015年3月22日(日)
 四旬節第5主日

 ヨハネによる福音書12章20節-33節

12,20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
12,21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
12,22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
12,23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
12,24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12,25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
12,26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
12,27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12,28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12,29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12,30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12,31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
12,32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
12,33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 「栄光」とは旧約聖書では、神ご自身、神の業を指す。従って、イエスが栄光を得させてください、と祈ったのは、イエスにおいて神ご自身が現れてくださいとの意味。ヨハネ福音書では、父である神とその子であるイエスは一体である、との考えがここにもある。わたしたちキリスト者もまた、イエスの生涯に神に従った模範を見るので、イエスに従うのだ。神に従った人は、旧約聖書に出ている。中でも、モーセやエリヤ、エレミヤがその例となる。思想では「苦難の僕」がある。その特徴は、「苦難」受けること。人々が死に向かって歩んでいるのを「生命」に向かわせようとしたけれど、「死」に捕らわれた人々から妨害され、危害を加えられ、迫害を受けなければならなかった。イエスもまた同じ「地に落ちて死ななければ」「命を憎まなければ」ならなかったのだ。神の「栄光」、つまり、ご自身、その業は人間には受け容れられないことなのだ。 
今週の一句
花嫁や ヴェール上げれば 櫻かな

―もとゐ―


 2015年3月29日(日)
 受難の主日

 エルサレム入城の記念の福音から
 マルコによる福音書11章1節-10節

11,1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
11,2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
11,3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
11,4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
11,5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
11,6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
11,7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
11,8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
11,9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
11,10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 イエスは目の前の重荷を負わされた人々の荷を軽くしよとした。即ち、重税と煩雑な律法からの重圧に極貧と差別、不平等に生きざるを得ない者たちが「今日のパン」を与えられ、借金が帳消しになり、日々の暮らしが何とか出来るよう働きかけた。しかし、それを良しとしない指導者、支配者たちから「生命」を取られることは洗礼者ヨハネの死から予感していた。(今日の富裕者優遇、弱者切り捨て政策からも類推できる。)「死」を予感しながらの、エルサレム入城はイエスにはどんな心境であっただろうか推し量れない。

 今のキリスト教会はイエスのようにエルサレム入城できるであろうか。 


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