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2015年3月1日(日) 四旬節第2主日 マルコによる福音書9章2節-10節
四旬節は回心の時です。回心とは神と交わした契約を守れなかった自分を反省し、再び、契約を更新することです。契約の内容は、イエスを人生の模範、先達者として彼の提示する生き方、指針を価値と認め、それに従うことです。 それではそのイエスとは誰か。今日の箇所では、モーセとエリヤに並ぶ者として描かれている。3者に共通するのは指導者です。しかも、モーセは人々の自律をエリヤは「バアル=富」という偶像崇拝からの解放を導いた指導者であったにもかかわらず、どこで死んだかもわからない、墓のないつまり記念碑を建て英雄、聖人として祀られなかった人として旧約聖書に書かれている。つまり、モーセ、エリヤと並んだイエスは重荷を負わされた人々の荷を軽くして、平等に扱われるように計らって、民衆から指示を得た指導者であったが、十字架刑と言う無残な最後となった。世間から、恭しく祀られる人ではなかった、と言うのです。 イエスに従った、ガンジー、M・キング、マンデラも暗殺、投獄の生涯でした。彼らの願いも後に続いて来い、だったでしょう。 そのイエスの後をついて行くというのですからキリスト者の道は容易ではない。だから、ペトロのように神殿を建てましょうとの安易な道を行きたくなるのです。回心とはどんなに険しくても改めてそのイエスに従うことを約束することなのです。 |
2015年3月8日(日) 四旬節第3主日 ヨハネによる福音書2章13節-25節
過越し祭を祝うため、イエスはエルサレム神殿に上った。過越し祭は、ユダヤ人が過ぎ越しの羊を献げ、エジプトの奴隷生活からの解放を祝った。さぞや、エルサレム神殿は賑わっていただろう。ユダヤ全土だけではなく外国に住む多くのユダヤ人がお参りに来たから。 従って、神殿にとって、絶交の収入獲得の祭りでもあった。日本でも、同様に、初詣は神社のかき入れ時。初詣客を相手の露天商も無数に出る。参拝客は一年の無病息災、五穀豊穣を祈願し、賽銭をする。参拝のついでに、遊んで金を使う。その意味で、神殿や神社は力ある者の宗教心の名を借りた搾取の場だ。 さて、神と人の関係を「契約」と考える旧約聖書の民はそのような儀礼的関係を拒否する。すなわち、彼らは神が示された人間の生き方、社会のあり方への指針を最高規範として受け容れ、それに従って生活すること、神はその人間の忠実さに対し、「祝福と幸い」を与える、その相互の約束することが神と人との関係なのだ。しかし、人はその約束を破ってしまう。それを「罪」と呼ぶ。神から背反した人は悔いて、再び、自分の非を認め、ゆるしを神に願い、神との契約を交わす。詩編50,51篇はそのことを謳っている。それによれば、神が喜ばれるのは高価な犠牲ではなく「打ち砕かれた心」、他者と正しい関わりを持つこと。すなわち、神殿に詣でて犠牲を献げる儀式ではなく、神の言葉を守り従うことこそが大事なのだ。イエスの「神殿清め」は神殿を媒介することなく神と直接に対話する、神との契約に返ることを目的としている。しかし、神殿を支配する者たちからは睨まれ、ついには十字架刑に処せられることとなる。 |
2015年3月15日(日) 四旬節第4主日 ヨハネによる福音書3章14節-21節
ヨハネ福音書では神殿にではなくイエスこそ人生を導く方、神から示された方であると証しする。「御子を信じる者が滅びないで永遠の命を得る」と。 永遠の命を得るとは「真理を行う」者であり、その行いはイエスに導かれる、と言う。 つまり、イエスに忠実な者はイエスのような真理を行うと言うこと。それを同福音書ではイエスを「道、真理、命」と呼んでいる。更に、「ぶどうの木」の例えではイエスに繋がっている者は「わたしの掟を守る」と言われている。「わたしの掟」とは「互いに愛し合う」こと「友のために自分の命を捨てること」。 イエスの神殿批判は、神殿に頼るとは、犠牲をささげること、礼拝するだけであって、生活、生き方はそのまま変わらないことに向けられている。しかし、イエスを「信じる」とは、犠牲をささげたり、礼拝をすることではなく、イエスに従うこと、即ち、イエスのように生きること、生活を変えること、とヨハネは教えている。 |
2015年3月22日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書12章20節-33節
「栄光」とは旧約聖書では、神ご自身、神の業を指す。従って、イエスが栄光を得させてください、と祈ったのは、イエスにおいて神ご自身が現れてくださいとの意味。ヨハネ福音書では、父である神とその子であるイエスは一体である、との考えがここにもある。わたしたちキリスト者もまた、イエスの生涯に神に従った模範を見るので、イエスに従うのだ。神に従った人は、旧約聖書に出ている。中でも、モーセやエリヤ、エレミヤがその例となる。思想では「苦難の僕」がある。その特徴は、「苦難」受けること。人々が死に向かって歩んでいるのを「生命」に向かわせようとしたけれど、「死」に捕らわれた人々から妨害され、危害を加えられ、迫害を受けなければならなかった。イエスもまた同じ「地に落ちて死ななければ」「命を憎まなければ」ならなかったのだ。神の「栄光」、つまり、ご自身、その業は人間には受け容れられないことなのだ。 |
2015年3月29日(日) 受難の主日 エルサレム入城の記念の福音から マルコによる福音書11章1節-10節
イエスは目の前の重荷を負わされた人々の荷を軽くしよとした。即ち、重税と煩雑な律法からの重圧に極貧と差別、不平等に生きざるを得ない者たちが「今日のパン」を与えられ、借金が帳消しになり、日々の暮らしが何とか出来るよう働きかけた。しかし、それを良しとしない指導者、支配者たちから「生命」を取られることは洗礼者ヨハネの死から予感していた。(今日の富裕者優遇、弱者切り捨て政策からも類推できる。)「死」を予感しながらの、エルサレム入城はイエスにはどんな心境であっただろうか推し量れない。 今のキリスト教会はイエスのようにエルサレム入城できるであろうか。 |
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