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2015年1月1日(木) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
「主が知らせてくださったその出来事」を見に行った羊飼いたち。それは、羊飼いたちは、神の言葉を頼りにその「死の陰の」人生を歩んだことを象徴的に示している。「飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」はこの世的には無価値である、何となれば、力、強さ、富、がこの世の価値であるから、無力、弱さ、無一物の乳飲み子には何の価値もない。まさに、イエスの生涯もこの世的には無価値であることを表している。しかし、それが、羊飼たちに示された生き方、神の言葉であった。羊飼たちは神を賛美しながら帰ったとある。 アベ政権の進める戦争、軍事産業、原子力よる経済成長とは反対の非暴力、非軍事力と和解、分かち合いのイエスに従う新しい年にしたい。 |
2015年1月4日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
聖書を残したヘブライの民は、その人生の指針、社会のあり方の方向を神の言葉とし、それに徹底的に従うことを選択した。と言うのは。この世のものは偶像であり、何の訳にも立たないと理解したからだ。 占星術の学者のイエス訪問物語はそれを示唆している。彼らは占星術の専門家だから、聴く声は、星の動き、つまり、天の声に聴いて人生を歩むから。彼らはヘロデ大王の声、逆らえば、命を失うにもかかわらず、夢、つまり天の声、神の声に従った。 秘密保護法の制定は、国民を目耳口をふさぎ、盲従させるためのものだ。従わなければ、罰せられる、戦前と同じ暗黒と弾圧の世の中となる。今、私たちは誰の声を聴いているのか。 |
2015年1月11日(日) 主の洗礼 マルコよる福音書1章7節-11節
イエスの洗礼、ここマルコ福音書では聖霊が下りイエスが神の子となった、言わば、即位式として描かれている。なぜなら、この福音書の初めに、「神の子」イエス・キリストの福音とあり、イエスが「神の子」であるとの前提から、では何時から「神の子」であったのかを示している。 では、その「神の子」と何か。聖霊の授与、つまり、神の息、命をいただき新たに生まれ変わることを言う。最初の人間が神の息を吹き入れられて生きるものとなったという創造の話し(創世記2章)から分かる。また、ニコデモとの対話(ヨハネ3章)からも同様だ。 イエスはそれまでの人間的価値観から神が提示する生き方、あり方を目指して生きることへ方向転換したのだ。重荷を負う人々の荷を共に背負う人生へと。(ルカ4・16〜参照) 私たちキリスト者の洗礼はそのイエスについて行く初めの一歩なのだ。 |
2015年1月18日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章35節-42節
洗礼者ヨハネは弟子たちにイエスを「神の子羊」と紹介した。イエスを「神の子」と呼ぶのは、イエスの十字架刑死の初代教会の解釈によるのだが、ともかく、ヨハネはイエスを次世代の人に伝える役であったと初代教会は見なした。では、私たちは自分の子や孫にイエスを何と紹介できるだろうか。現代人がその方に出会いたい、ついて行きたいと思わせるように伝えられるだろうか。その前には、自分にとってイエスが誰であるかを、まず納得してなければならない。 |
2015年1月25日(日) 年間第3主日 マルコによる福音書1章14節-20節
人は憧れや夢を持つと、その実現に一歩踏み出す。例えば、憧れのスポーツ選手のようになりたいと願うとき、精進努力を厭わない。同じように、現代の混乱、終わりのない紛争、続発するテロを前に、一刻も早く平和になり平穏な暮らしに戻ることを願うならば、そのためにできることから始めるだろう。 今の混迷した時代を何とかしたい、変えたいと願っていた人はイエスと出会い、イエスの生き様を見た時、彼こそ、新しい生き方、社会の変革を示した人であると確信したのだ。まさに、彼にとってイエスの登場は「時は満ち、神の国は近づいた」なのであり、イエスは「神の子」、「神の子羊」だったのだ。そのイエスを憧れ、彼に倣い、ついて行くことを召命と言う。 |
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