|
2014年12月7日(日) 待降節第2主日 マルコによる福音書1章1-8節
キリスト者とはイエスの生涯を模範、つまり、「福音」とし、その後をついて行こうとする人だ。言わば、イエス大好き人間のこと。さて、そのイエスの始まりが「荒野」での洗礼者ヨハネからだ、と言うのが今日の箇所。エルサレムの南に広がる「荒野」はまさにガリラヤト違い、不毛の地、人が自力で生きることのできない世界、気を抜いたらあっという間に死に引きずり込まれてしまう。人が生きるには力を合わせ、知恵を働かし合うしかない。ヨハネの「悔い改め」の叫びはその荒野で人が生きて行くため、生の全うのために上がったのだ。 イエスはヨハネのもとへ駆けつけた。彼との出会いからイエスの活動が始まった。キリスト者の私たちは、まず、この世界が「荒野」であることに気づこう、そして、自分と世界を変えて行こう。 |
2014年12月14日(日) 待降節第3主日 ヨハネによる福音書1章6-8節、19節-28節
洗礼者ヨハネはキリスト教では、イエス・キリストの先駆者、到来を告げる者、紹介者と位置づけられている。ユダヤ教では神を代々「賛美」し続けることが人間の努めとされ、それを怠ることは「恥」とされた。「賛美」とは「告白」することであり、つまり、神を神とする、神を絶対として、提示される言葉だけを人間の生き方、指針とすること、それ以外を偶像として退けること。 洗礼者ヨハネはイエスの中に神の言葉に忠実に生きている姿を見出したのだ、今の混迷する時代を新しき切り開く生き方をイエスの姿に見つけたのであった。伝えずにおれなかったのだ。 私たちもイエスに新しい生き方を見出したなら、伝えずにはいられないのではないか。 |
2014年12月21日(日) 待降節第4主日 ルカによる福音書1章26節-38節
洗礼者ヨハネは「わたしより優れた方」が来られると、その人の到来を待ち続けた。ヨハネ以外のユダヤ人もそうであった。行き詰まり、苦難の続く現状を変える人、打破する人、新しい生き方を教える人、等々。 エリザベト、マリアも生まれて来る子は何になるのか、神の支配、誰もが大切にされることの実現に働きかける子の誕生を願って待っていた。 私たちは誰を待っているのでしょうか。安部さんでしょうか。イエスでしょうか。 |
2014年12月25日(木) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
今から2000年前ユダヤの人々は待っていた、混乱する現状を打破し、誰もが命を全うできる状態へと導くリーダーを。圧倒的な軍事力を持ったローマ帝国の直轄領となったユダヤでは、重税により貧富の差が甚だしくなり、多くの貧民は乞食同然となっていた。他方、大祭司らは自治を委ねられ、反ローマを徹底的に取り締まり、社会の安定を第一に政治を行っていた。更に、宗教指導者としては上記の乞食同然の人々を律法を守らない者として「罪人」とレッテルを貼り差別排除していた。このようにして貧しい人々は二重三重の重荷を負わされ、喘ぎ苦しみ命を全うできずにいた。イエスは彼らの様を見て「飼い主のいない羊」と呼んで、心を痛めたと福音記者は語る。 貧しい者たちの叫び声を耳にした信仰ある人は、その現状を変えるカリスマ指導者の到来を待った。洗礼者ヨハネの父ザカリアはその讃歌で「解放の主」の到来を預言し、ヨハネも「来たるべきメシア」を探した。マリアはマリアの讃歌、マグニフィカトで自分が母として「権力ある者をその座から引き下ろし、飢えた人を良い物で満た」す神の働きのパートナーとなったことを歌っている。老人のシメオン、アンナも「救い」主を待っていた。イエスの誕生は、彼・彼女たちが待っていた、悲惨な現状を変えられる指導者が現れた、と言うこと。 そのイエスを模範とし、世界を変えて行った指導者が続いた。ガンジー、キング、マンデラ、そしてマララである。彼らがついて行き、目指したイエスの誕生日がクリスマスなのである。 |
|