ももちゃんの一分間説教



今週の一句
紅葉路を 登りつめれば 浅間山

―もとゐ―


 2014年11月2日(日)
 死者の日

 ヨハネによる福音書6章37-40節

6,37 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
6,38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
6,39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
6,40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 「メメント モリ」(死を憶えよ)。御嶽山の噴火事故が記憶に新しい。「死」の到来は誰も予測がつかない。この不安な人生を如何に安心して過ごせられるか、宗教はその答えを見つけようとする。例えば、旧約聖書の詩編23編には「死の陰を人間は神の言葉により頼んで歩くことに幸いを見出す」と歌われているように。羊を飼う遊牧民、他の難民であったヘブライを導いたのが何であったか明瞭にわかる。

 では神不在の現代の我々を導くものは何であろうか。科学技術、軍事力、富、権力であろうか。否、それらは、戦争、飢餓、貧困、環境汚染、等々、「死」を増幅しているではないか。

 それなら、イエスのようにもう一度旧約聖書の預言者に耳を傾けることが必要ではないか。預言者は「死に体」のイスラエルに叫んだ、偶像に頼るな、生命の創り主に立ち返れ、と。生命の充実、全うさせる智慧を働かせることが、今、求められている。 
今週の一句
数えれば 百七十一 経た十三夜

―もとゐ―


 2014年11月9日(日)
 ラテラン教会の献堂

 ヨハネによる福音書2章13-22節

2,13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。
2,14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
2,15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
2,16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2,17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
2,18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。
2,19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2,20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2,21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
2,22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 ヨハネ福音書では、イエスを律法に代わる「ことば」、モーセに代わり神との仲介をする者として紹介している。従って、今回の所謂「宮清め」の話はイエスが上述のように、「神殿」に代わる神の現臨する方であると述べている。イエスがそもそも「宮清め」をしたのは、神との関係を「いけにえを捧げる」ことではなく神の言葉、掟を守ることだと考えていたから。もちろん、それは、旧約聖書の教えに忠実であろうとしたから。ヘブライの民は、カナンの宗教、王制に批判的に闘い、別の在り方、すなわち、「万人の平等」の社会を造ろうとした。従って、カナンの肥沃宗教の象徴である「神殿」を拒否したのは当然だ、ヘブライの神は、神殿という一か所に臨在するのではなく、人と共に移動する、インマヌエルと呼ばれ、人の生き方の指針なのだ。それゆえ、人はその言葉に従って生きることこそを神との関係とした。肥沃宗教は自己の安全、富、快楽を追求する、他方、ヘブライの神は「万人の平等」、相互扶助を求める。イエスはその神に従った、それゆえ、神殿を批判したのであった。   
今週の一句
舞い散りて 吹き寄せられし 紅葉かな

―もとゐ―


 2014年11月23日(日)
 王であるキリスト

 マタイによる福音書25章31-46節

25,31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25,32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25,33 羊を右に、山羊を左に置く。
25,34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25,35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25,36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25,37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25,38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25,39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25,40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25,41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25,42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25,43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25,44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25,45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25,46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 キリストが「王」であるとキリスト教は言うけれど、その意味は何だろうか。というのは、旧約聖書では「王」や「王制」について終始批判的であるから、ダビデ王については国際政治上、王政を取らざるを得なかった必要悪としている。(サムエル記、列王記を参照)何となれば、「王」は経済的発展、軍事上、弱者を産み、搾取差別するから、と言う。現代の国家も同じだが。その意味で、キリストは「王」だと言うには抵抗がある。中世のキリスト教会はまさに「王」となって人々を苦しめたのは、歴史から明らかだ。

 では、どういう意味なのだろうか。イエスの裁判でピラトはイエスを「ユダヤ人の王」として、十字架刑に処した。ピラトはイエスが民衆から人気があること、それが政情不安の材料となることを知っていたのだ。では、なぜ、イエスは民衆から人気があったのか。それは、まさに、今日の福音にあるように弱い立場、虐げられた人々と共にあったから。即ち、イエスが「王」であるとは、重荷を負った人々、疲れた者たちと共にあった、と言う意味だ。従って、そのイエスに従う私たちのあり方は明らかだ。 
今週の一句
古池や 錦織りなす 逆紅葉

―もとゐ―


 2014年11月30日(日)
 待降節第1主日

 マルコによる福音書13章33-37節

13,33 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13,34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13,35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13,36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13,37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 「目覚めていなさい。」人生が幸いの道を進められるには、ぼんやりと周りに流されないことが肝要だ。例えば、戦争への道、かって日本はアジア太平洋地域に計り知れない暴虐の限りを尽くし、国内にも未曾有の犠牲者を出した。政治・軍部の独走を許したからだ。原発事故もしかり。

 旧約聖書には預言者の「見張りの責任」が問われている。(エゼキエル書33章、他)悪人への警告、立ち帰りを怠ることは、預言者自身の「死の責任」が問われる。同様に、正しい者が道を踏み外し、悪を行うのを傍観、無視して「死」ぬならば、預言者の責任だ、と言う。

 キリスト教会は信者に預言者職の責任があると言う。ならば、私たちは、国の悪への道、自分と他者の悪への道を警告し、止めさせる働きをしなければならない。

 即ち、「目覚めていなさい。」  


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