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2014年11月2日(日) 死者の日 ヨハネによる福音書6章37-40節
「メメント モリ」(死を憶えよ)。御嶽山の噴火事故が記憶に新しい。「死」の到来は誰も予測がつかない。この不安な人生を如何に安心して過ごせられるか、宗教はその答えを見つけようとする。例えば、旧約聖書の詩編23編には「死の陰を人間は神の言葉により頼んで歩くことに幸いを見出す」と歌われているように。羊を飼う遊牧民、他の難民であったヘブライを導いたのが何であったか明瞭にわかる。 では神不在の現代の我々を導くものは何であろうか。科学技術、軍事力、富、権力であろうか。否、それらは、戦争、飢餓、貧困、環境汚染、等々、「死」を増幅しているではないか。 それなら、イエスのようにもう一度旧約聖書の預言者に耳を傾けることが必要ではないか。預言者は「死に体」のイスラエルに叫んだ、偶像に頼るな、生命の創り主に立ち返れ、と。生命の充実、全うさせる智慧を働かせることが、今、求められている。 |
2014年11月9日(日) ラテラン教会の献堂 ヨハネによる福音書2章13-22節
ヨハネ福音書では、イエスを律法に代わる「ことば」、モーセに代わり神との仲介をする者として紹介している。従って、今回の所謂「宮清め」の話はイエスが上述のように、「神殿」に代わる神の現臨する方であると述べている。イエスがそもそも「宮清め」をしたのは、神との関係を「いけにえを捧げる」ことではなく神の言葉、掟を守ることだと考えていたから。もちろん、それは、旧約聖書の教えに忠実であろうとしたから。ヘブライの民は、カナンの宗教、王制に批判的に闘い、別の在り方、すなわち、「万人の平等」の社会を造ろうとした。従って、カナンの肥沃宗教の象徴である「神殿」を拒否したのは当然だ、ヘブライの神は、神殿という一か所に臨在するのではなく、人と共に移動する、インマヌエルと呼ばれ、人の生き方の指針なのだ。それゆえ、人はその言葉に従って生きることこそを神との関係とした。肥沃宗教は自己の安全、富、快楽を追求する、他方、ヘブライの神は「万人の平等」、相互扶助を求める。イエスはその神に従った、それゆえ、神殿を批判したのであった。 |
2014年11月23日(日) 王であるキリスト マタイによる福音書25章31-46節
キリストが「王」であるとキリスト教は言うけれど、その意味は何だろうか。というのは、旧約聖書では「王」や「王制」について終始批判的であるから、ダビデ王については国際政治上、王政を取らざるを得なかった必要悪としている。(サムエル記、列王記を参照)何となれば、「王」は経済的発展、軍事上、弱者を産み、搾取差別するから、と言う。現代の国家も同じだが。その意味で、キリストは「王」だと言うには抵抗がある。中世のキリスト教会はまさに「王」となって人々を苦しめたのは、歴史から明らかだ。 では、どういう意味なのだろうか。イエスの裁判でピラトはイエスを「ユダヤ人の王」として、十字架刑に処した。ピラトはイエスが民衆から人気があること、それが政情不安の材料となることを知っていたのだ。では、なぜ、イエスは民衆から人気があったのか。それは、まさに、今日の福音にあるように弱い立場、虐げられた人々と共にあったから。即ち、イエスが「王」であるとは、重荷を負った人々、疲れた者たちと共にあった、と言う意味だ。従って、そのイエスに従う私たちのあり方は明らかだ。 |
2014年11月30日(日) 待降節第1主日 マルコによる福音書13章33-37節
「目覚めていなさい。」人生が幸いの道を進められるには、ぼんやりと周りに流されないことが肝要だ。例えば、戦争への道、かって日本はアジア太平洋地域に計り知れない暴虐の限りを尽くし、国内にも未曾有の犠牲者を出した。政治・軍部の独走を許したからだ。原発事故もしかり。 旧約聖書には預言者の「見張りの責任」が問われている。(エゼキエル書33章、他)悪人への警告、立ち帰りを怠ることは、預言者自身の「死の責任」が問われる。同様に、正しい者が道を踏み外し、悪を行うのを傍観、無視して「死」ぬならば、預言者の責任だ、と言う。 キリスト教会は信者に預言者職の責任があると言う。ならば、私たちは、国の悪への道、自分と他者の悪への道を警告し、止めさせる働きをしなければならない。 即ち、「目覚めていなさい。」 |
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