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2014年10月5日(日) 年間第27主日 マタイによる福音書21章33-43節
今日の譬えは、ユダヤ教から分離したイエスグループが自分たちを何と考えたのか、すなわち、神からぶどう園の管理を任されたけれど背信したイスラエルに代わって、その任を与えられた新しいイスラエルであると。ぶどう園の管理とは、命あるすべてのものを守り、充実させること。「産めよ、増えよ、地を従わせうよ」と創世記にあるように。従って、キリスト教会の使命もそこにある。 |
2014年10月12日(日) 年間第28主日 マタイによる福音書22章1-14節
神からの招き、あるいは、人類からの呼び掛けと言い換えられることは、「よく生きよ」ではないか。それに応えているだろうか。生命、人権より経済が現代の価値観ではないか。富の奪い合いが紛争の原因となっているのではないか。家族間の争いもそこにあるのではないか。「よく生きよ」の呼び掛けに、ハッとして、生活を方向転換し、応えて行かなければ、人類は滅びて行くのだろう。 |
2014年10月19日(日) 年間第29主日 マタイによる福音書22章15-21節
イエスの生きたガリラヤ地方の農民たちは、幾重もの税金や法外な小作料に喘ぎ倒れていた。例えば、ローマ、ヘロデの支配者からの徴税と、神殿税という神殿からの取り立て、等々。そして、エルサレムの大土地所有者がガリラヤの農民から強奪していた。そのため農民は天文学的借金を背負わされた。故に、ガリラヤには度々エルサレム支配者への反乱が生じたという。つまり、税金を払うかどうかはガリラヤの住民にとっては死活問題であった。これらのことから、今日の「税金問答」が政教分離の根拠に使われるのは間違いと言わざるを得ない。「よく生きよ」との神の命に従うイエスにはガリラヤ農民の重荷を取り払いたいと思うのは当然であった。だから、ローマの税金云々言うあなたたちは神殿税の名のもとに更に農民を苦しめているのは如何なものと問い返したのであった。 現在、我が国の徴税に大問題があるのではないか。教会は真剣に取り組むべきではないか。 |
2014年10月26日(日) 年間第30主日 マタイによる福音書22章34-40節
「神を愛し、隣人を愛しなさい。」これはイエスの教えを要約する言葉としてキリスト教徒の人口に膾炙されているが、改めてその意味を考え、現代的にはどう言い換えられるのか考えたい。 流浪の民ヘブライは願望である定着し安定した生活を得るため、この言葉を神が提示した人間とその集団の生き方として受け容れた。この言葉に従わなければ、流浪と離散の悲惨な生活から抜けられないと分かったのだ。なぜなら、古代オリエント世界は王を頂点としたヒエラルキー社会で大多数の人は生産者奴隷としてしか生きられなかった。つまり、95%の人々は自由を奪われ、王の意のままに仕えるしか生きて行く術がなかった。ヘブライはその社会から追放、排除され難民化した人々であった。彼らはヒエラルキー社会で奴隷として生きることを善しとしなかった、自由に自律して生きることを、社会の成員すべてが平等に、一人一人が大切にされる社会をすることを望み、目指した。その実現のための規範、指針が「この世の王」に仕えることを拒否し、この世を超えた絶対者、すなわち、「神」に従うこと、「神」を愛することを第一の掟にしたのであった。 ヘブライが目指した3000年後の現代世界、状況は変わっていない。ますます、少数の支配者が富と権力を握り、大多数は暴力、貧困、飢餓に曝され、命を奪われている。この現状を打破して行くことが、「神を愛し、隣人を愛する」ことなのではないか。 |
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