ももちゃんの一分間説教



今週の一句
信号待ち にわかに溢れし 虫の音

―もとゐ―


 2014年10月5日(日)
 年間第27主日

 マタイによる福音書21章33-43節

21,33 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21,34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21,35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21,36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21,37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21,38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21,39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21,40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21,41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21,42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21,43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

 今日の譬えは、ユダヤ教から分離したイエスグループが自分たちを何と考えたのか、すなわち、神からぶどう園の管理を任されたけれど背信したイスラエルに代わって、その任を与えられた新しいイスラエルであると。ぶどう園の管理とは、命あるすべてのものを守り、充実させること。「産めよ、増えよ、地を従わせうよ」と創世記にあるように。従って、キリスト教会の使命もそこにある。  
今週の一句
西の空 川面映えけり 秋夕焼け

―もとゐ―


 2014年10月12日(日)
 年間第28主日

 マタイによる福音書22章1-14節

22,1 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕たとえを用いて語られた。
22,2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22,3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22,4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22,5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22,6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22,7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22,8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22,9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22,10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22,11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22,12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22,13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22,14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 神からの招き、あるいは、人類からの呼び掛けと言い換えられることは、「よく生きよ」ではないか。それに応えているだろうか。生命、人権より経済が現代の価値観ではないか。富の奪い合いが紛争の原因となっているのではないか。家族間の争いもそこにあるのではないか。「よく生きよ」の呼び掛けに、ハッとして、生活を方向転換し、応えて行かなければ、人類は滅びて行くのだろう。  
今週の一句
台風の 悩ましき針路 大運動会

―もとゐ―


 2014年10月19日(日)
 年間第29主日

 マタイによる福音書22章15-21節

22,15 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22,16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22,17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22,18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22,19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22,20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22,21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 イエスの生きたガリラヤ地方の農民たちは、幾重もの税金や法外な小作料に喘ぎ倒れていた。例えば、ローマ、ヘロデの支配者からの徴税と、神殿税という神殿からの取り立て、等々。そして、エルサレムの大土地所有者がガリラヤの農民から強奪していた。そのため農民は天文学的借金を背負わされた。故に、ガリラヤには度々エルサレム支配者への反乱が生じたという。つまり、税金を払うかどうかはガリラヤの住民にとっては死活問題であった。これらのことから、今日の「税金問答」が政教分離の根拠に使われるのは間違いと言わざるを得ない。「よく生きよ」との神の命に従うイエスにはガリラヤ農民の重荷を取り払いたいと思うのは当然であった。だから、ローマの税金云々言うあなたたちは神殿税の名のもとに更に農民を苦しめているのは如何なものと問い返したのであった。

 現在、我が国の徴税に大問題があるのではないか。教会は真剣に取り組むべきではないか。 
今週の一句
雨上がり ビル街染めし 秋夕陽

―もとゐ―


 2014年10月26日(日)
 年間第30主日

 マタイによる福音書22章34-40節

22,34 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22,35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22,36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22,37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22,38 これが最も重要な第一の掟である。
22,39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22,40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 「神を愛し、隣人を愛しなさい。」これはイエスの教えを要約する言葉としてキリスト教徒の人口に膾炙されているが、改めてその意味を考え、現代的にはどう言い換えられるのか考えたい。

 流浪の民ヘブライは願望である定着し安定した生活を得るため、この言葉を神が提示した人間とその集団の生き方として受け容れた。この言葉に従わなければ、流浪と離散の悲惨な生活から抜けられないと分かったのだ。なぜなら、古代オリエント世界は王を頂点としたヒエラルキー社会で大多数の人は生産者奴隷としてしか生きられなかった。つまり、95%の人々は自由を奪われ、王の意のままに仕えるしか生きて行く術がなかった。ヘブライはその社会から追放、排除され難民化した人々であった。彼らはヒエラルキー社会で奴隷として生きることを善しとしなかった、自由に自律して生きることを、社会の成員すべてが平等に、一人一人が大切にされる社会をすることを望み、目指した。その実現のための規範、指針が「この世の王」に仕えることを拒否し、この世を超えた絶対者、すなわち、「神」に従うこと、「神」を愛することを第一の掟にしたのであった。

 ヘブライが目指した3000年後の現代世界、状況は変わっていない。ますます、少数の支配者が富と権力を握り、大多数は暴力、貧困、飢餓に曝され、命を奪われている。この現状を打破して行くことが、「神を愛し、隣人を愛する」ことなのではないか。 


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