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2014年9月7日(日) 年間第23主日 マタイによる福音書18章15-20節
イエスは権力者、富者から生産のための労働力としか見なされず、命と人をおろそかにされ、極貧と病のうちにしか生きられない者たちが命の充実、全うできるよう働かれた。それは、神の慈しみ、すなわち、生の充実、全うさせる意志、力に生きようとしたイエスには見て見ぬふりはできなかった。元来、律法、掟と呼ばれる神の言葉は人を生かし、幸いに導くものであった。しかし、イエス時代には、人を縛り裁くものとなっていたから、裁かれた人の生は災いと呪いとなってしまった。だから、イエスは律法で裁くことをもう止めよう、互いに生かしあうため、「ゆるしあおう」と呼びかけられた。十字架刑死はまさにその象徴となった。 イエスに連なる教会の使命もそこにある。「憎むことより愛うることを。」 |
2014年9月14日(日) 十字架称賛 ヨハネよる福音書3章13-17節
神の愛は、生命の充実、命を全うしようとする意志、力を意味する。神がイエスを遣わしたのは、私たちの生命がより豊かに、充実するためだ、この神の思いに応えようとするなら、生命の軽視、人権の無視には断固闘わなければならない。 戦争、飢え、貧困、暴力、差別の横行する今日の世界に、声を上げ、犠牲者を増やさない方策、手段を考え、実行することが教会の使命となる。 |
2014年9月21日(日) 年間第25主日 マタイによる福音書20章1-16節
イエスは誰であるか。マタイ福音書は労働者を平等に扱った農園主としてそれを描いている。まさに、人間の非難にさらされながらも、神の慈しみを体現した人としてイエスを捉えている。私たちの周りが同じになるよう、教会は率先しなければならない。 |
2014年9月28日(日) 年間第26主日 マタイによる福音書21章28-32節
神は誰もの生命が全うされることを望む。生きるのに困難であったヘブライの民に神は語りかけた、「わたしは血まみれのお目に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。」(エゼキエル16・6) ヘブライの民は、この神と契約を交わし、生きる方向、理念を持った。それは、「生きる」ためであった。「わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。」(同18・9) しかし、イスラエル国建設後、神との契約を破り、すなわち、神の掟、言葉に背き、偶像に従って、貧者を顧みず、富者優先の政治をしたため(同18・10−13)、神は罰して滅ぼしたと捕囚に遭ったユダヤ人は神学的反省をした。けれど、神は罰する前に、何度も回心を預言者を通して呼び掛けていた。人が神に立ち帰り、その生命を全うするようにとの「神の慈しみ」が人間に発せられた。「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(同18・31、32) 混迷深める中東問題、国内で多発する凶悪犯罪等、生命が粗末にされ疎かにされている今、「生きよ」の神の呼び掛けに応えなければならない。 |
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