ももちゃんの一分間説教



今週の一句
雨上がり 映るものみな 月清か

―もとゐ―


 2014年9月7日(日)
 年間第23主日

 マタイによる福音書18章15-20節

18,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18,16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18,17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18,18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
18,19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18,20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


 イエスは権力者、富者から生産のための労働力としか見なされず、命と人をおろそかにされ、極貧と病のうちにしか生きられない者たちが命の充実、全うできるよう働かれた。それは、神の慈しみ、すなわち、生の充実、全うさせる意志、力に生きようとしたイエスには見て見ぬふりはできなかった。元来、律法、掟と呼ばれる神の言葉は人を生かし、幸いに導くものであった。しかし、イエス時代には、人を縛り裁くものとなっていたから、裁かれた人の生は災いと呪いとなってしまった。だから、イエスは律法で裁くことをもう止めよう、互いに生かしあうため、「ゆるしあおう」と呼びかけられた。十字架刑死はまさにその象徴となった。

 イエスに連なる教会の使命もそこにある。「憎むことより愛うることを。」 
今週の一句
幕下ろす 季節の名残 曼珠沙華

―もとゐ―


 2014年9月14日(日)
 十字架称賛

 ヨハネよる福音書3章13-17節

3,13 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
3,14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3,15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
3,16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
3,17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 神の愛は、生命の充実、命を全うしようとする意志、力を意味する。神がイエスを遣わしたのは、私たちの生命がより豊かに、充実するためだ、この神の思いに応えようとするなら、生命の軽視、人権の無視には断固闘わなければならない。

 戦争、飢え、貧困、暴力、差別の横行する今日の世界に、声を上げ、犠牲者を増やさない方策、手段を考え、実行することが教会の使命となる。 
今週の一句
9条破憲 雨にたたられ 秋彼岸

―もとゐ―


 2014年9月21日(日)
 年間第25主日

 マタイによる福音書20章1-16節

20,1 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20,2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20,3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20,4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20,5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20,6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20,7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20,8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20,9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20,10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20,11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20,12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20,13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20,14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20,15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20,16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 イエスは誰であるか。マタイ福音書は労働者を平等に扱った農園主としてそれを描いている。まさに、人間の非難にさらされながらも、神の慈しみを体現した人としてイエスを捉えている。私たちの周りが同じになるよう、教会は率先しなければならない。 
今週の一句
秋の朝 コーヒーカップ揺らし 出勤かな

―もとゐ―


 2014年9月28日(日)
 年間第26主日

 マタイによる福音書21章28-32節

21,28 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21,29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21,30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21,31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21,32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 神は誰もの生命が全うされることを望む。生きるのに困難であったヘブライの民に神は語りかけた、「わたしは血まみれのお目に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。」(エゼキエル16・6)

 ヘブライの民は、この神と契約を交わし、生きる方向、理念を持った。それは、「生きる」ためであった。「わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。」(同18・9)

 しかし、イスラエル国建設後、神との契約を破り、すなわち、神の掟、言葉に背き、偶像に従って、貧者を顧みず、富者優先の政治をしたため(同18・10−13)、神は罰して滅ぼしたと捕囚に遭ったユダヤ人は神学的反省をした。けれど、神は罰する前に、何度も回心を預言者を通して呼び掛けていた。人が神に立ち帰り、その生命を全うするようにとの「神の慈しみ」が人間に発せられた。「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(同18・31、32)

 混迷深める中東問題、国内で多発する凶悪犯罪等、生命が粗末にされ疎かにされている今、「生きよ」の神の呼び掛けに応えなければならない。 


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