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2014年8月3日(日) 年間第18主日 マタイによる福音書14章13-21節
日本語訳の聖書(新共同訳)には小見出しがあり、本日の箇所には「五千人の供食」と記されている。この種の話は「聖者伝説」と言われ、古今東西の偉人聖人伝に見られる奇跡物語だ。旧約のエリシャによるパン増加もその一つだ。それは大麦パン二十個を100人に分け与えて、なお残った、と言う。(列王下4・42〜)それが福音書にも取り入れられ、イエスは100人ではなく5000人に満腹するほどパンを増やしたから、エリシャを凌駕する偉大なメシアであることを示している。 さて、宗教は「困った時の神頼み」と言われる。キリスト教でも、何でもかんでも神に祈る。無病息災、家内安全、等々。また、今日の物語のような飢えた人々を前にしたとき、パンが与えられるよう神に祈る。聖書では神と人との関係はそれではない。神の言葉に従うことだ。今日の場合、申命記に貧しい人々に両手を拡げ、十分に貸し与えなさい。との神の指針がある。(申15・7、8)イエスはkの言葉に応え、弟子たちにも思い起こさせたのだ。 |
2014年8月10日(日) 年間第19主日 マタイによる福音書14章22-33節
イエスの湖上歩行と嵐鎮めはイエスが「神」であるとの信仰から語られたものだ。しかし、今日これを読んでも、もし、イエスがパンの増加や今日のような自然をコントロールする神であるとするなら、何故、キリスト教会の切なる祈りにもかかわらず、人類の歴史上の不幸をイエスはなくして来なかったのか、との疑問しか出て来ない。従って、前回同様、神様は全知全能だからキリスト者は弱い信仰を強めもっと神様に信頼しましょうとの説教にしかならない。しかし、神様はなかなか動かないから、今日も、戦争で殺される人がなくならないのはキリスト教徒の怠慢だと言うことなのか。つまり、「祈り」だけでは駄目なんだ、神様、と叫んでも沈むだけだ。パンの話しのように、イエスと弟子たちが自分のパンを出し惜しみしない、働きかけて行くしかないのでは。 |
2014年8月17日(日) 年間第20主日 マタイによる福音書15章21-28節
神の慈しみとは生きよう、生命の充実、生命の全うしようとする力、意志と言われる。 イエスは異邦人である女性の思い、すなわち、娘の命を助けたい、病気から回復させたい、との必死さを「信仰」と呼んだ。それは、女性が神の慈しみに生きたことを指すのであろう。 神の慈しみをミサ毎に讃える私たちは、生の充実を求め、それを阻害するあらゆるものと戦うことを「信仰」と呼ぼう。 |
2014年8月24日(日) 年間第21主日 マタイによる福音書16章13-20節
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」クリスチャンと名乗る私たちにとってこの問い、つまり「イエスは誰か」は永遠に考え続けることだ。何故なら、クリスチャンとはそのイエスを人生の先達として信従する者だから、イエスを知らずには不可能だ。ここでは、弟子の答えからイエスが誰であるかを考えよう。 まず、「神の子」、それは、「凄い人」、「尋常ではない人」の意味、飢え、病み、貧しい人たちにとってイエスは世間と異なり、越え、己を捨て、それが奇跡の意味である「力ある業、驚くべき働き」をもって自分らと関われた人であったのだ。旧約聖書では同様なエリアやエリシャを「神の人」と呼ぶ。次に「メシア」、それは王と祭司を(アロン、サウル、ダビデ、等)指し、黙示思想では終末に天から降ってくる者と考えられている。イエスには洗礼の際、油注がれた、すなわち、「霊」が降ったとされる。そして、ルカ福音書では霊を受けたイエスの使命を次のように語る、「貧しい人に福音を、囚われ人の解放」と。したがって、「神の子」と「メシア」は同じことを示す。つまり、神からの使命を受けた人、貧しい人々と関われたイエスだ、ということ。私たちはそのイエスに従うのだ。 |
2014年8月31日(日) 年間第22主日 マタイによる福音書16章21-27節
ペテロはイエスを「メシア、神の子」と立派な信仰告白をした。しかし、ペテロは信仰告白をすることの意味を取り違えた。イエスの十字架刑死の受難の道を拒否したからだ。つまり、ペテロの信仰告白はイエスを神格化し、礼拝し崇め奉り、それによって自己の利益、安心、安全を得ようとすること、まさに、自分の命を愛することであった。しかし、信仰告白とはイエスの招きの言葉にあるように、イエスについて行くこと、十字架を背負うこと、つまり、他者、貧しい人々が幸いになることを求めて行くこと、なのだ。イエスは神が人を想像されたその思い、(創1・27)すなわち、人は人との関わりのうち、相互扶助に生きるよう創られたことを忠実に生きようとした。同じく、イエスを神の子と信仰告白するキリスト者の生もそこにある。 |
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