ももちゃんの一分間説教



今週の一句
雨雲を 何のそのと咲く 槿かな

―もとゐ―


 2014年7月6日(日)
 年間第14主日

 マタイによる福音書11章25-30節

11,25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11,26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11,27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11,28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11,29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11,30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」

 イエスは悩んだ、何故、周りには病む人、飢えた者、家のない人々が無数いて、悲惨な境遇に生きなければならないのか、神は人の必要なすべてを与えているはずなのに。イエスは分かった。個人の責任ではなく構造悪の性であることを。国の王、政治家、貴族、大祭司たちが、彼・彼女らを搾取し、差別し、それを宗教的に正当化して、自己の地位・利益を守っていることを見極めたのであった。

 「疲れさせ、重荷を負わせている」ことを。イエスはその社会構造、あり方を別のあり方へ、王を頂点とするヒエラルキー社会から、みなが幸いになる平等、公正な社会のなることを目指した。重荷を軽くしあうことを。即ち、キリスト教会の目指すところである。 
今週の一句
台風や 長靴の出勤 近さ知り

―もとゐ―


 2014年7月13日(日)
 年間第15主日

 マタイによる福音書13章1-23節

13,1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13,2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13,3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13,4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13,5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13,6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13,7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13,8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13,9 耳のある者は聞きなさい。」
13,10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13,11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13,12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13,13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13,14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
13,15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13,16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13,17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
13,18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13,19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
13,20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
13,21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
13,22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
13,23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 イエスの生まれ育ったガリラヤ地方は古代オリエント世界での唯一雨が降り、肥沃な土地であった。しかし、その豊かな農産物を狙って東西の大帝国が絶えず侵略を繰り返してきた場でもあった。イエス時代はローマ帝国の支配下であった。それ故、住民の大多数は農奴として極貧に生きざるをえなかった。日本における戦前の東北地方を思い起こすならその状況が分かる。イエスの眼前にはそのガリラや地方の農奴としてしか生きられない農民の労働の過酷さが広がっていたことだろう。働いても働いても、収穫は土地所有者に吸い取られ使い捨てにされて行く様子が見えていた。同時に、神と人との関係においても、神はどんなに人間が命と幸いを得られるように、繰り返し、神との関係、すなわち、神が提示される生き方、人間集団のあり方、に立ち返ること、追及して行くよう国の指導者たちに呼びかけている。しかし、彼らは目の前の欲にかられ、それに応えない姿をイエスは見ていた。だから、イエスははじめた、病人とともに生き、パンを分かち合うことを。その小さな種火がガリラや地方へ拡がって行くことを夢見たのだ。教会の宣教もイエスの夢を追い続けることではないか。  
今週の一句
夕暮れの 広場はじけり 花火かな 

―もとゐ―


 2014年7月20日(日)
 年間第16主日

 マタイによる福音書13章24-43節

13,24 〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13,25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13,26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13,27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13,28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13,29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13,30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13,31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13,32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13,33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
13,34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
13,35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
13,36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13,37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13,38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13,39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13,40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13,41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13,42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13,43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 世界の現状は見るに堪えられないものばかりだ。イラク、シリア、パレスティナ等々、泥沼の戦争状態、世界は紛争解決への手立てを持たず、毎日、多数の犠牲者を出し続けている。その他、飢え、病気、などなど。世界は決していいものではない。神様は一体何をやっているんだと文句つけたくなる。

 神様に因縁つけてもしょうがない。やはり、人間が解決して行くしかない。そのための一つ、旧約の民が神と約束したことを思い返そう。そして、イエスがなさったことを思い出そう。  
今週の一句

―もとゐ―


 2014年7月27日(日)
 年間第17主日

 マタイによる福音書13章44-52節

13,44 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13,45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13,46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13,47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13,48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13,49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13,50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13,51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13,52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 ヘブライの人々は『エジプトからの脱出』という物語を語ることで、自分たち、そして人間存在が「自由/自律」を目指すことを、私たちに伝えようとしたのではないか。イエスが目指したのもそれではないか。すなわち、支配者によって重税と律法に押しつぶされて生命を生かされない、全うされないガリラヤの農民の重荷を軽くし、自己決定による生命の幸いになることを。それゆえ、イエスは神の指針であるみ言葉、聖書を読み、聴いた。そして、病人や飢えた人たちのところへ出かけて行った(種まきのたとえ、畑の宝のたとえ)。しかし、イエスの言動に希望を見出した人と拒絶した人もいた(良い麦と悪い麦のたとえ、漁のたと
え)。

 イエスの目指したことを、私たちも「宝」と見出し取組みたい。  


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