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2014年7月6日(日) 年間第14主日 マタイによる福音書11章25-30節
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」 イエスは悩んだ、何故、周りには病む人、飢えた者、家のない人々が無数いて、悲惨な境遇に生きなければならないのか、神は人の必要なすべてを与えているはずなのに。イエスは分かった。個人の責任ではなく構造悪の性であることを。国の王、政治家、貴族、大祭司たちが、彼・彼女らを搾取し、差別し、それを宗教的に正当化して、自己の地位・利益を守っていることを見極めたのであった。 「疲れさせ、重荷を負わせている」ことを。イエスはその社会構造、あり方を別のあり方へ、王を頂点とするヒエラルキー社会から、みなが幸いになる平等、公正な社会のなることを目指した。重荷を軽くしあうことを。即ち、キリスト教会の目指すところである。 |
2014年7月13日(日) 年間第15主日 マタイによる福音書13章1-23節
イエスの生まれ育ったガリラヤ地方は古代オリエント世界での唯一雨が降り、肥沃な土地であった。しかし、その豊かな農産物を狙って東西の大帝国が絶えず侵略を繰り返してきた場でもあった。イエス時代はローマ帝国の支配下であった。それ故、住民の大多数は農奴として極貧に生きざるをえなかった。日本における戦前の東北地方を思い起こすならその状況が分かる。イエスの眼前にはそのガリラや地方の農奴としてしか生きられない農民の労働の過酷さが広がっていたことだろう。働いても働いても、収穫は土地所有者に吸い取られ使い捨てにされて行く様子が見えていた。同時に、神と人との関係においても、神はどんなに人間が命と幸いを得られるように、繰り返し、神との関係、すなわち、神が提示される生き方、人間集団のあり方、に立ち返ること、追及して行くよう国の指導者たちに呼びかけている。しかし、彼らは目の前の欲にかられ、それに応えない姿をイエスは見ていた。だから、イエスははじめた、病人とともに生き、パンを分かち合うことを。その小さな種火がガリラや地方へ拡がって行くことを夢見たのだ。教会の宣教もイエスの夢を追い続けることではないか。 |
2014年7月20日(日) 年間第16主日 マタイによる福音書13章24-43節
世界の現状は見るに堪えられないものばかりだ。イラク、シリア、パレスティナ等々、泥沼の戦争状態、世界は紛争解決への手立てを持たず、毎日、多数の犠牲者を出し続けている。その他、飢え、病気、などなど。世界は決していいものではない。神様は一体何をやっているんだと文句つけたくなる。 神様に因縁つけてもしょうがない。やはり、人間が解決して行くしかない。そのための一つ、旧約の民が神と約束したことを思い返そう。そして、イエスがなさったことを思い出そう。 |
2014年7月27日(日) 年間第17主日 マタイによる福音書13章44-52節
ヘブライの人々は『エジプトからの脱出』という物語を語ることで、自分たち、そして人間存在が「自由/自律」を目指すことを、私たちに伝えようとしたのではないか。イエスが目指したのもそれではないか。すなわち、支配者によって重税と律法に押しつぶされて生命を生かされない、全うされないガリラヤの農民の重荷を軽くし、自己決定による生命の幸いになることを。それゆえ、イエスは神の指針であるみ言葉、聖書を読み、聴いた。そして、病人や飢えた人たちのところへ出かけて行った(種まきのたとえ、畑の宝のたとえ)。しかし、イエスの言動に希望を見出した人と拒絶した人もいた(良い麦と悪い麦のたとえ、漁のたと え)。 イエスの目指したことを、私たちも「宝」と見出し取組みたい。 |
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