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2014年6月1日(日) 主の昇天 マタイによる福音書28章16-20節
キリスト教会は、その使命をイエスの呼びかけに応える、ことと見た。であるならば、洗礼を授けろとは、イエスの示した新しい生き方、弱く貧しくさせられた人々と生きる群れを集めることではないか。今のアベノミクスは人権を軽視し、切り捨てて行くものにほかならない。従って、教会の使命はそれに反対し、平等に生きられる社会を目指すこととなる。 |
2014年6月8日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書20章19-23節
創世記によれば、神の創造の前、「地は混沌、闇が原初の水の面にあり、その水の面に、神の霊が働きかけた」と言う。そして、神のことば「光あれ」の呼びかけに、光は現れ、光と闇に分けたのだった。神の霊はことばと共に、混沌を分け、人間は宇宙が何であるかを認識、分かったのであった。それまで、古代オリエント世界は宇宙を神話として語り、人間には理解不可能であった。従って、人間は神の子である「王」の言葉に従う他なかった。聖書の人々は、宇宙を被造物、有限なものとし、神は宇宙を越えた、絶対なもの、永遠なものと見た、よって、人間はこの世のもの、即ち、「王」にではなく、絶対、永遠な「神」に従う、とする思想を生んだ。 これを、イエスの十字架刑に直面した弟子たちに当てはめよう。まさに、混沌であった。彼らは理解不可能、意味喪失状態で立ち上がれなかった。そこへイエスのことばと霊が与えられたのだ。彼らは分かった、理解し、意味を見いだした、この世に従うのではなく、イエスのように神のことばに耳を傾けることによって、立ち上がり、戸を開けて出て行くことができたのだ。 今、この世の勢力が強いなか、聴くべきことは何か教えられる。聖霊降臨、私たちに神の霊とことばが働かれるのだ。 |
2014年6月15日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書3章16-18節
イエスの十字架刑死に直面した弟子たちは、その意味を「神の人への献身的愛」であると解した。「永遠の命を得る」とは神が示された人間のあるべき姿、理念を発見した、と言うこと。イエスの十字架に至る生き様を省察したとき、弟子たちは自分たちの目指す究極の価値、すなわち、「神の言葉に応え、他者と共に生きる」ことを見出したのだ。まさに、絶望から新しく創り直されたのだ。それが、聖霊を受けることの意味。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創1・2)「神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。」(詩51・12)「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20・22)人間の在り方、社会の在りようをから。 |
2014年6月22日(日) キリストの聖体 ヨハネによる福音書6章51-58節
「神は独り子を与えたほど世を愛された。」即ち、神は私たち人間がよりよく生きられるよう、イエスを模範として示されたのだ。今日の箇所では、それを「わたしは命のパン」と言い換えている。私たち人間が生きるには肉体的にはパンが必要であると同じように、どう生きるか、何を目指すべきかの精神的必要性を満たすのは、真実の言葉だ。イエス自身は、神の言葉、律法に徹底的に従われた。キリスト者と称する私たちは、そのイエスを人生の先達者と認めたのだ。イエスを食べるとか飲むとは、日々の生活をイエスの生き様を血肉にしよう、と言うこと。それによって、「永遠の命」、つまり、真の人生を生きられる、と言うこと。 |
2014年6月29日(日) 聖ペトロ・聖パウロ使徒 マタイによる福音書16章13-19節
キリスト教会は、イエスの呼びかけに応え集まった者たちだ。従って、イエスが何者であるか、即ち、何を目指し、何をされたかを理解しなければならない。福音書のエピソードから見えてくるイエスの姿は、病人や飢えた人との関わりだ。マタイはそれを重荷を負う人の荷を軽くし、疲れた人を休ませるのがイエスだと言う。では、何故、イエスが彼・彼女らと関わったのか。イエスは神の言葉、即ち、提示された人間・社会のあり方に徹底的に応えようとしたから。その神のことばは「人間は誰しも神の前では、自由、平等、独自な存在である」こと。イエスはこの旧約聖書の人権宣言を実現しようとした。病人や飢えた人が人として当たり前、平等に生きられるように。彼・彼女らは当時の律法観から「罪人」と烙印を押され、人権を奪われていたため、イエスはそんな律法観から解放されるよう「罪のゆるし」を宣言したことはその一例だ。 そのイエスに従うキリスト教会の目指すべきところは、同様に、誰もが大切に扱われ、その生命を全うできるようにすることではないか。 |
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