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2014年3月2日(日) 年間第8主日 マタイによる福音書6章24節-34節
イエスの前には、パンを求め、寝る場所を探し、病の癒しを願っている人々がガリラヤには無数にいた。一方、エルサレムには肥え太り、贅沢な生活をしていた人々が少数いた。イエスは神がそのような不平等の世界を創造したとは思わなかった。なぜなら、創世記には、神は創造した世界を前に、「極めて良かった」と言ったとあるから。イエスはそれを「空の鳥、野の花」から学べと教える。では、何故、イエスの前の世界は不平等なのか。それは、一部の富裕者が富を独占し、貧しい人々を生み出しているのだ。それ故、イエスは「思い悩むな」「明日のことを心配するな」とエルサレムの富裕者に叫んだ。お前たちは「まず、神の国と神の義を求めよ」即ち、神との契約を思い起こせ、貧しい者がいなくなるよう、自分の富を貧しい人々に惜しみなく施すようにとの神の言葉を守れ、と富裕者に呼びかけたのであった。 |
2014年3月23日(日) 四旬節第三主日 ヨハネによる福音書4章5節-42節
イエスは、永遠の命に至る水(ヨハネ4・14)、パン(同6・58、他)であるとヨハネは言う。それは、いわゆる、渇く水、飢えるパン、即ち、物質的欲望、現生利益の願いを適えるのがイエスの役割ではないことを言っている。荒野の悪魔からの誘惑を断ったイエスと同じだ。むしろ、イエスはこの世が価値とする生き方ではなく、他の生き方、価値、新しい人間像を追求されたのだ。従って、その後に従うことをイエスの水、パンを求めよと、言いかえている。サマリアの女はイエスとの出会いに、目が開かれ、人生を前に進めたのであった。 |
2014年3月30日(日) 四旬節第四主日 ヨハネによる福音書9章1-41節
イエスとの出会いと対話は、出会った者の目を開き、新しい人と成らせる。まず、イエスの活動は悪魔との対話から始まった。そして、悪魔からの三つの誘惑を拒否した。つまり、イエスは奇跡行為者ではないことを活動方針とした。奇跡行為者であることは、悪魔を礼拝することに他ならない。イエスは神のみを絶対権威者として従うのであった。故に、イエスは奇跡を求める信仰者の目を開き、神の言葉に耳を傾けさせる。次に、ニコデモとサマリアの女との出会い、対話があった。そこでも、同様。「神の国」を見るためには、新しく生まれ変わること。つまり、イエスは既成のものを捨て、新しい価値観、即ち神の言葉に生きることを(まさに、洗礼の意味)ニコデモに勧めた。また、サマリアの女の目を開かれた。即ち、現生利益ではなく永遠、即ち、神の言葉に従うこと、パンのみではなく神の言葉に生きることを。 次に、目が見えると言い張るファリサイ派との対話。ここでは前述のように、奇跡行為者を拒否したイエスの活動方針に矛盾するため、奇跡に意味があるのではなくファリサイ派の頑なさに意味を見いだすべき。つまり、ファリサイ派の熱心さが仇になり、律法の偏狭的解釈に捕らわれて、目が見えなくなり、本来の律法の意味である人を「活かす」から逸脱し、むしろ、人を「裁き、差別し、殺す」生き方になってしまった。故に、イエスの盲人への関わりに目くじら立てて非難すればするほど彼らの目は閉じて行くのであった。 |
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