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2014年2月2日(日) 主の奉献 ルカによる福音書2章22節-40節
ユダヤ人たちには、初めに生まれた男の子を主への捧げ物とする規定があった。(出エジプト記13章)また、その子をナジル人として一生を主に仕えるために捧げることもあった。ルカによるイエスの両親による神殿詣ではそれらを意味している。そして、シメオンらのイエスへの予言は、イエスが何者であるかを表している。即ち、「異邦人の光」であり、イスラエルを分ける印であると。 さて、イエスに触れて生き方を形成したM・L・キング牧師は黒人への差別を撤廃するため、白人への暴力闘争ではなく白人との和解、両者の解放を訴えた。そのため、イエスのように双方から迫害を受けた。今、教会はあるべき姿をキングに倣わなければならない。 |
2014年2月9日(日) 年間第5主日 マタイによる福音書5章13節-16節
「山上の説教」では、イエスの弟子であるとは何であるのかを説いている。塩が塩であるのは塩味がある、ということ。灯りがそれであるのは明るくすること。同じように、イエスの弟子であることはイエスのように生きること。即ち、「隣人」になること。 |
2014年2月16日(日) 年間第6主日 マタイによる福音書5章13節-16節
イエスの弟子であるとは何かの続き。先週、それは「隣り人」になる、ことと言ったけれど、そもそも、旧約の民、ヘブライが神の言葉、律法と呼んだのは生き方の指針、方向、つまり、どのような人間集団のありかた、人間の生き方を導くものであった。そして、彼らが目指したのは「人間は誰でも平等である」ことであった。しかし、イエス時代、律法は人間を裁き、分裂、敵対させるものとなってしまった。例えば、律法を守れない人を「罪人」と呼び、その汚れから守るために、排除、関係を断ってしまう基準となった。それ故、イエスは律法の元来の意味に立ち返った。律法で人を裁くのではなく、共生、「隣人」となるための律法を「完成」することを。 |
2014年2月23日(日) 年間第7主日 マタイによる福音書5章38節-48節
イエスの弟子であることは、イエスが生きられ、目ざされた夢を追い続けること。イエスは言う、「天の父の子となれ」と。天の父は、誰をも偏り見ず、大切にされる方であるから、イエスの弟子は誰をも尊重し、尊重される社会にすることが求められる。 教会へと呼び集められた私たちの使命はそこにある。遠く険しい道だけれど、歩き続けよう。 |
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