ももちゃんの一分間説教



今週の一句
夜明け前 買い物向かう 大晦日

―もとゐ―


 2014年1月1日(土)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(2・19)ルカのイエス誕生物語はイエスが神の子であり、救い主としての使命が与えられ、羊飼いらを代表とする貧しい者、重荷に押しつぶされた人を謂う、に福音を告げる者であることを表している。それはマタイの学者たちの訪問を較べれば、分かる。

 さて、マリアは何を思いめぐらしていた、あるいは熟慮していたのだろうか。信仰とは神の呼びかけに応えることだと言われる。マリアはイエスの母となるよう神から呼びかけられた。だから、マリアの胸中にあることは、今、飼い葉おけに寝ている幼子イエスの将来をではないか。ローマ帝国の圧政下、重税と律法により押しつぶされ、貧困、病気、飢え、に喘でいる人々が大多数いる中、この子は命、人生を全うできるのだろうか、できるには、どうしたら良いのだろう、そのために必要なことは何だろう。時代状況に流されるのではなく、洞察し、立ち向かい、貧しい人々に福音を伝えるために知恵、精神力をどう育てて行ったらいいのだろうか、母親としての使命を改めて深く考えていたのではないだろうか。

 新しい年のはじめにあたり、世の中に無自覚で自分さえよければの生活ではなく、神の使命を熟慮して応えて生きたい。
今週の一句
布団の中 猫と取り合う 寒中かなー

―もとゐ―


 2014年1月5日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 三人の博士(共同訳では占星術の学者)のイエス訪問は、他のマタイによるイエス誕生物語と同じく、キリストであるイエスが何者かを教えようとする。即ち、イエスはユダヤ民族だけの王ではなく異民族の王、つまり、全世界の王であることを表す。

 同時に、それは、神が先祖アブラハムに約束された使命を終末に、ユダヤ民族が実現するという思想の成就でもある。(参照:創世記12・2、イザヤ2・3)

 さて、マタイがイエス・キリストを「王」であると言うとき、ヘロデのような「王」を意味してはいない。むしろ、「仕える者、僕」(マタイ20・25)であり、「十字架刑死」する(同27・37)、つまり、他者のために自分の命を惜しまないイエスの姿を指し示す。

 今、世界の指導者たちは、マタイの言うように「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」、それらに、従うのではなくイエスや、その後に続いたガンジー、キング、マンデラを指導者とするのがキリスト者なのだ。 
今週の一句
水遣れば 如雨露に鏡 張る氷

―もとゐ―


 2014年1月12日(日)
 主の洗礼

 マタイによる福音書3章13節-17節

3,13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3,14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3,15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3,16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3,17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 洗礼はヨハネが言うように「悔い改め」つまり、生き方の神への転換だ。イエスはこれから先の人生を神の言葉に従うものへと方向転換するため洗礼を受けた。神への応答は「神の子」として生きること、だから、イエスの洗礼、それは神の子であるとの認証式(詩編第2編を参照。)とも言えよう。そこでは、イエスに相応しい神の霊の賦与、即ち、知識・識別・思慮・勇気・神を畏れ敬う賜物(イザヤ11章)が与えられた。神の霊を得て、神の子としてイエスは貧しい者への宣教に向かったのだった。(同61章)

 洗礼を受けた者はもう一度出直そう、イエスの道へ。
今週の一句
振袖や 出合えば嬉し 成人式

―もとゐ―


 2014年1月19日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書1章29節-34節

1,29 〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1,30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1,31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1,32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1,33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1,34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 キリスト教では洗礼者ヨハネをイエスの先駆者、証する者と位置づけている。今日の福音でもそれはあきらか。

 それはともかく、ヨハネがキリストを「神の子羊」と呼んだ。今の私たちもミサ毎にそう歌っているが、それでよいだろうか。なぜなら、その意味はユダヤ教の祭儀で獣を生贄に捧げ、それによって、神から罪をゆるしてもらう、その犠牲獣にキリストが代わられた、 こと、

 所謂、キリストの十字架死を贖罪死とする神学だ。ヨハネは当時のユダヤ人なら誰でも分かる言葉でイエスを証しした。しかし、現代の人には分からない。今、私たちはイエスを「神の子羊」、即ち、私の罪を神からゆるしてもらうためにイエスが犠牲になった方と証しできるだろうか。出来ない、では、これ何と呼ぼう、つまり、イエスは何であると私たちは、人々に証しできるのだろうか。 
今週の一句
蒲団干し 体温もる 大寒かな

―もとゐ―


 2014年1月26日(日)
 年間第3主日

 マタイによる福音書4章12節-23節

4,12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4,13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4,14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4,15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4,16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4,17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
4,18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
4,19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
4,20 二人はすぐに網を捨てて従った。
4,21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
4,22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
4,23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

 イエスは洗礼による聖霊の授与により、自分の使命を悟った。即ち、貧しい者との関わりだ。なぜなら、彼の住むガリラヤ地方はオリエント世界一の農業生産地にもかかわらず、自営農民たちは、相次ぐ侵略戦争や重税によって、土地を手放し、農奴になって極貧の生活を強いられていたのだった。イエスは大工としてその街々を巡って、重荷に喘ぐ人々の悲惨な姿を目の当たりにした。当時のユダヤ教では、その貧しい者を「罪人」と呼び、共同体から排除するばかりなのであった。

 しかし、本来のユダヤ教では、貧しい者への関わりを、神の言葉として守られねばならなかった。(例、申命記15章)イエスは目覚めた、このままでは駄目だ、悔い改めよう、つまり方向転換をし、貧しい者たちに背をむけることから、向き合い、彼らが平等に扱われ、飢えと病気から解放され、人生を全うできるよう働こう、と決意された。「天の国は近づいた」をこのガリラヤの地が「天の国」、即ち、貧しい者がいなくなる地として形成して行こう、の意味なのだ。教会は、常に「悔い改めよ。天の国は近づいた」を自身への呼びかけとして受け止め、その過程に参画するよう招かれている。 


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