ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
闇深し 灯す松明 銀杏紅葉

―もとゐ―


 2013年12月1日(日)
 待降節第1主日

 マタイによる福音書24章37節-44節

24,37 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24,38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24,39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24,40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24,42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24,43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24,44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 イエス時代、ユダヤの人々は現状の打破のためにメシアの到来を待ち望んでいた。支配者層はローマ帝国からの独立のための政治的メシアを。エッセネ派は世を裁く天的メシアを。それでは、イエスの周りの人たち「最底辺の人たち」は誰を待っていたのだろうか。飢えと病気、重税と律法主義の重荷を取り払われ、希望と平和に生きられるよう導く方ではなかっただろうか。イエスはその願いに応えられた。そして、支配者らから殺害された。時のしるしを見究めるとは誰と共に生きるか、と言うこと。教会は誰と居るのか問われている。 
今週の一句
冬の空 鵜編隊飛行 闇を裂く

―もとゐ―


 2013年12月8日(日)
 待降節第2主日

 マタイによる福音書3章1節-12節

3,1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3,2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3,3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3,4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
3,5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
3,6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
3,7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3,8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
3,9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3,10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3,11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 貧しい人たちは途端の苦しみに喘えでいた。しかし、政治家や宗教家たちは無能であった。人々の苦難はますばかりであった。

 洗礼者ヨハネは立ち上がった。「荒野にあって呼ばわる声」(太田道子試訳)だと聖書は記すが、人のいない砂漠で叫んだのではない、旧約聖書のエリアと同じく、当然、都、エルサレム神殿に向かって「回心」を叫んだのであった。「主の道を備えよ、どの道筋も真っ直ぐにせよ。」(太田道子試訳)と、それは、第2イザヤが念願であるエルサレムへの帰還が始まるから、そのためには神のみに従って行こうとビロニアの捕囚民に呼びかけたのであった。ヨハネもまた為政者たちが、回心、即ち、神の言葉に従って、歩み直すことこそが、神の怒りから逃れることだと呼びかけたのだ。神の言葉とは「誰もが大切にされる人間の理想状態」に向かう指針のこと、為政者の責任はエゼキエルの言葉にあるよう(エゼキエル33章)それに応えることだ。

 洗者ヨハネの姿勢にならうことが、今、教会にも求められる。   
今週の一句
イベント漬け イルミばかりの クリスマス

―もとゐ―


 2013年12月15日(日)
 待降節第3主日

 マタイによる福音書11章2節-11節

11,2 〔そのとき、〕ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11,3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11,4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11,5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11,6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
11,7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11,8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11,9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11,10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11,11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

 人々を神に向かわせる、つまり、回心させるにはどうしたらよいのか。ヨハネはユダヤ教指導者たちに叫びを挙げた。「悔い改めよ」と。彼らはヨハネを捕え殺害した。イエスは指導者たちではなく、貧しく重荷を負った人々の中に入り、パンを配り病を癒された。それでも、権力者たちはイエスを殺害した。現代世界の闇に光を灯すにはどうしたらよいのか。人々が生き方を変えるには何をしたらよいのか、今、考えなければならない。   
今週の一句
雨上がり 黄葉落ちて 染まる道

―もとゐ―


 2013年12月22日(日)
 待降節第4主日

 マタイによる福音書1章18節-24節

1,18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1,19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1,20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1,21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1,22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1,23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1,24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ〔た。〕

 キリスト教はナザレのイエスを神の子と信じるので、当然、その生まれは超自然的出来事でなければならない。キリスト誕生物語はそれゆえ作られた。しかも、当時の古代地中海世界に流布していた王、偉人、英雄の神的誕生物語様式を使って。さて、マタイが言おうとしていることは、イエスとはBC.8世紀のイザヤ預言者の言葉が成就したメシア、神の子である、こと。イザヤ預言の文脈を無視したものでしかないが。ともかく、マタイはユダヤ人にイエスがその時代を変革するリーダーであることを主張したかった。

 そこから、今を生きるキリスト教会はイエスの後を継ぎ、混迷深める現代世界のリーダーとなることを求められている。  
今週の一句
独り身や サンタの出迎え コンビニかな

―もとゐ―


 2013年12月24日(火)
 主の降誕(夜半)

 ルカによる福音書2章1節-14節

2,1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2,2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2,3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2,4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2,5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2,6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2,7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2,8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2,9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2,10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2,11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2,12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2,13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2,14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」

 ニュースは暗いものばかり。スーダン、シリア、他の戦争はじめ人権抑圧や自然災害、日本国内ではPKOでの弾薬提供、防衛費の増加に対して社会保障費の削減、等々。犠牲者や弱い立場の人々の苦難は如何ばかりであろうか。それらの苦しみを取り除く新しい思想、運動、生き方が示されるのを切に願う。

 「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」イエスは当時の重荷を負う人々の荷をそれまでとは全く新しい在り方で軽くしようとした。私たちは、イエスに倣い、現代の重荷を負う人たちと新しい生き方を協働して行くことがその誕生を祝うこととなる。

 (クリスマスだから/かんがえる/たくさんたくさん たくさん/かなしんでいる/ひとの こと…阪田寛夫「クリスマスだから」)
今週の一句
尖り靴 昼飯求む 御用納め

―もとゐ―


 2013年12月29日(日)
 聖家族

 マタイによる福音書2章13節-15節、19節-23節

2,13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2,14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2,15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2,19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、
2,20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
2,21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
2,22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、
2,23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 マタイのイエス誕生物語はイエスが旧約聖書の預言されているメシア像、即ち、ダビデ王の子孫である、ことを証明するために書かれた。従って、イエスはナザレ生まれではなく、ダビデの町であるベツレヘムで生まれたことを主張するので、エジプト逃避行したことにしている。それはともあれ、家長のヨゼフはマリアの懐胎から、事ある毎に、彼の道行は神の言葉に従ったことに注目したい。それは、三人の博士にも共通であるが、他方、ヘロデ王や側近たちの私利私欲の声に従うのとは異なっている。

 聖書の民であるヘブライは人生の指針、理想を神の言葉、啓示として受け取り、それに従うことを神と契約を結ぶと呼んできた。なんとなれば、それ以外の古代オリエント世界では王が絶対であり、人はそれに聞き従うしか生きる道はなかった。しかし、王は人間であり、有限であることを難民であるヘブライは認識していた、王の言葉は朝令暮改でしかないことを体得していた。人である王に従うのではなく、それを越えた絶対者、神に従うことを良しとしたのであった。そして、その神の言葉を守って生きることを「聖」と呼んだ。ヨゼフはその限り「聖」であり、家族もまた同じ、しかし、神に従わなければ「罪」「汚れ」にある、ことを聖書は教える。   


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