ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年12月1日(日) 待降節第1主日 マタイによる福音書24章37節-44節
イエス時代、ユダヤの人々は現状の打破のためにメシアの到来を待ち望んでいた。支配者層はローマ帝国からの独立のための政治的メシアを。エッセネ派は世を裁く天的メシアを。それでは、イエスの周りの人たち「最底辺の人たち」は誰を待っていたのだろうか。飢えと病気、重税と律法主義の重荷を取り払われ、希望と平和に生きられるよう導く方ではなかっただろうか。イエスはその願いに応えられた。そして、支配者らから殺害された。時のしるしを見究めるとは誰と共に生きるか、と言うこと。教会は誰と居るのか問われている。 |
2013年12月8日(日) 待降節第2主日 マタイによる福音書3章1節-12節
貧しい人たちは途端の苦しみに喘えでいた。しかし、政治家や宗教家たちは無能であった。人々の苦難はますばかりであった。 洗礼者ヨハネは立ち上がった。「荒野にあって呼ばわる声」(太田道子試訳)だと聖書は記すが、人のいない砂漠で叫んだのではない、旧約聖書のエリアと同じく、当然、都、エルサレム神殿に向かって「回心」を叫んだのであった。「主の道を備えよ、どの道筋も真っ直ぐにせよ。」(太田道子試訳)と、それは、第2イザヤが念願であるエルサレムへの帰還が始まるから、そのためには神のみに従って行こうとビロニアの捕囚民に呼びかけたのであった。ヨハネもまた為政者たちが、回心、即ち、神の言葉に従って、歩み直すことこそが、神の怒りから逃れることだと呼びかけたのだ。神の言葉とは「誰もが大切にされる人間の理想状態」に向かう指針のこと、為政者の責任はエゼキエルの言葉にあるよう(エゼキエル33章)それに応えることだ。 洗者ヨハネの姿勢にならうことが、今、教会にも求められる。 |
2013年12月15日(日) 待降節第3主日 マタイによる福音書11章2節-11節
人々を神に向かわせる、つまり、回心させるにはどうしたらよいのか。ヨハネはユダヤ教指導者たちに叫びを挙げた。「悔い改めよ」と。彼らはヨハネを捕え殺害した。イエスは指導者たちではなく、貧しく重荷を負った人々の中に入り、パンを配り病を癒された。それでも、権力者たちはイエスを殺害した。現代世界の闇に光を灯すにはどうしたらよいのか。人々が生き方を変えるには何をしたらよいのか、今、考えなければならない。 |
2013年12月22日(日) 待降節第4主日 マタイによる福音書1章18節-24節
キリスト教はナザレのイエスを神の子と信じるので、当然、その生まれは超自然的出来事でなければならない。キリスト誕生物語はそれゆえ作られた。しかも、当時の古代地中海世界に流布していた王、偉人、英雄の神的誕生物語様式を使って。さて、マタイが言おうとしていることは、イエスとはBC.8世紀のイザヤ預言者の言葉が成就したメシア、神の子である、こと。イザヤ預言の文脈を無視したものでしかないが。ともかく、マタイはユダヤ人にイエスがその時代を変革するリーダーであることを主張したかった。 そこから、今を生きるキリスト教会はイエスの後を継ぎ、混迷深める現代世界のリーダーとなることを求められている。 |
2013年12月24日(火) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
ニュースは暗いものばかり。スーダン、シリア、他の戦争はじめ人権抑圧や自然災害、日本国内ではPKOでの弾薬提供、防衛費の増加に対して社会保障費の削減、等々。犠牲者や弱い立場の人々の苦難は如何ばかりであろうか。それらの苦しみを取り除く新しい思想、運動、生き方が示されるのを切に願う。 「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」イエスは当時の重荷を負う人々の荷をそれまでとは全く新しい在り方で軽くしようとした。私たちは、イエスに倣い、現代の重荷を負う人たちと新しい生き方を協働して行くことがその誕生を祝うこととなる。 (クリスマスだから/かんがえる/たくさんたくさん たくさん/かなしんでいる/ひとの こと…阪田寛夫「クリスマスだから」) |
2013年12月29日(日) 聖家族 マタイによる福音書2章13節-15節、19節-23節
マタイのイエス誕生物語はイエスが旧約聖書の預言されているメシア像、即ち、ダビデ王の子孫である、ことを証明するために書かれた。従って、イエスはナザレ生まれではなく、ダビデの町であるベツレヘムで生まれたことを主張するので、エジプト逃避行したことにしている。それはともあれ、家長のヨゼフはマリアの懐胎から、事ある毎に、彼の道行は神の言葉に従ったことに注目したい。それは、三人の博士にも共通であるが、他方、ヘロデ王や側近たちの私利私欲の声に従うのとは異なっている。 聖書の民であるヘブライは人生の指針、理想を神の言葉、啓示として受け取り、それに従うことを神と契約を結ぶと呼んできた。なんとなれば、それ以外の古代オリエント世界では王が絶対であり、人はそれに聞き従うしか生きる道はなかった。しかし、王は人間であり、有限であることを難民であるヘブライは認識していた、王の言葉は朝令暮改でしかないことを体得していた。人である王に従うのではなく、それを越えた絶対者、神に従うことを良しとしたのであった。そして、その神の言葉を守って生きることを「聖」と呼んだ。ヨゼフはその限り「聖」であり、家族もまた同じ、しかし、神に従わなければ「罪」「汚れ」にある、ことを聖書は教える。 |
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