ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年10月6日(日) 年間第27主日 ルカによる福音書17章5節-10節
「信仰を増してください」、信仰が深ければ、踏切で倒れた老人を助け起こしに行けるだろうか。否、いくら準備したとしても、その場で咄嗟に動ける保証はない。 イエスが十字架に突き進んだのも信仰があったか、どうのではないだろう。イエスは明確に自分の行くべき道を理解していたのではないか。「徴税人や罪人を招いて食事する」結果が。 私たちは、混迷する現代世界にあって、進むべき道を明らかにしなければならない。イエスの背中を追って行こう。 |
2013年10月13日(日) 年間第28主日 ルカによる福音書17章11節-19節
「信仰」とは神と人との関係を言う。ましてや、弟子たちのように超能力を授かるものではない。私たちが神の名を口にするのは、苦しみや悲しみに出会ったときだけ。幸いや豊かさにあるならば、感謝もしなければ、祈りもしない。こういうのは「苦しい時の神頼み」と言われる。今日の、9人のらい病者のように。 旧約聖書では神の言葉を人生の指針として受け入れ、それに従って生きることを「信仰」と言う。ヘブライの民は人生における様々な苦難を如何にして乗り越えて行くか、神の言葉を便りにして乗り越えようとした。また、イエスは十字架への道のりを絶えず、神との対話のなかで進まれた。他方、弟子たちは、先を進まれたイエスに倣うことによって「嵐」を乗り越えられたのに、イエスに従わなかった故に、恐れてしまい、イエスから「信仰薄い者よ」と叱責されたのであった。 12年間の長血を患った女性は人間に従うのではなく神に従うイエスの後について行ったから、その病気を克服したのであった。イエスは彼女に言った、「あなたの信仰があなたを救った」と。 癒されて、感謝しながら戻ってきた人は、彼の人生すべてが神と共にあったのだ。 苦難も喜びも神の導きに従ったゆえに、克服し恵まれと人生を見ていたのだ。 今、世界は困難にある、打開するために神の言葉に耳を傾け従って行こう。 |
2013年10月20日(日) 年間第29主日 ルカによる福音書18章1節-8節
旧約聖書では、寡婦は孤児、寄留人と一緒に表される弱い立場の人々の代表だ。その寡婦が裁判官に、しきりに嘆願していることから、不当な状況下におかれていることが想像できる。あの出エジプト記では、奴隷であったヘブライの民の嘆きを神が聴かれ、降りていった、とあることやイエスが病人たちの訴えを聴き、行動したことに連想が行く。旧約聖書の神は、人間をあるべき姿に導くものだ。 言い換えれば、人はその状態から外れているとき、ここでは、寡婦の状態、それを正しい、つまり、寡婦が平等に扱われる方向へ変えて行かねばならないのだ。神の導きとは、人がそれに従って生きて行くということ。 従って、「祈り」とは弱い立場の人々の訴えであり、それに耳を傾け、取り上げて行くこと。祈り続けろとは、現在の不正不当を訴え、抗議し、行動し続けること。 |
2013年10月27日(日) 年間第30主日 ルカによる福音書18章9節-14節
聖書の人間観は「神の前では、人はみな自由、平等、独自な存在である」と言われる。イエスが「神の国はあなた方の間にある」、と言ったのは、それを実現しようとする人間相互の関わりが神の国である、からだ。今日の神殿で祈った二人の間はどうであったか。前者のファリサイ派は確かに律法には忠実なユダヤ教徒にちがいない。けれど、彼の視線の先には、重荷を負わされ、悲しみに打ちひしがれた徴税人の姿はいなかった。むしろ、拒否、差別した上で、自分を誇っていた。ユダヤ教の律法の元来の意味を忘れていたのだ。他方、徴税人はイエスが彼らの仲間と言われるように、イエスがその重荷を軽くしようとされた「貧しい人」の一人であった。 イエスに倣おうとする私たちは、祭儀だけに熱心になって誇るのではなく、イエスと同じく重荷を負わされた人との関わりを大事にしたい。 |
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