ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
青空や 拡がる香り 金木犀

―もとゐ―


 2013年10月6日(日)
 年間第27主日

 ルカによる福音書17章5節-10節

17,5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17,6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17,7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17,8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17,9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17,10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 「信仰を増してください」、信仰が深ければ、踏切で倒れた老人を助け起こしに行けるだろうか。否、いくら準備したとしても、その場で咄嗟に動ける保証はない。

 イエスが十字架に突き進んだのも信仰があったか、どうのではないだろう。イエスは明確に自分の行くべき道を理解していたのではないか。「徴税人や罪人を招いて食事する」結果が。

 私たちは、混迷する現代世界にあって、進むべき道を明らかにしなければならない。イエスの背中を追って行こう。 
今週の一句
登校の 子たち転がす 銀杏の実

―もとゐ―


 2013年10月13日(日)
 年間第28主日

 ルカによる福音書17章11節-19節

17,11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17,12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17,13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17,14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17,15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17,16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17,17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17,18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17,19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 「信仰」とは神と人との関係を言う。ましてや、弟子たちのように超能力を授かるものではない。私たちが神の名を口にするのは、苦しみや悲しみに出会ったときだけ。幸いや豊かさにあるならば、感謝もしなければ、祈りもしない。こういうのは「苦しい時の神頼み」と言われる。今日の、9人のらい病者のように。

 旧約聖書では神の言葉を人生の指針として受け入れ、それに従って生きることを「信仰」と言う。ヘブライの民は人生における様々な苦難を如何にして乗り越えて行くか、神の言葉を便りにして乗り越えようとした。また、イエスは十字架への道のりを絶えず、神との対話のなかで進まれた。他方、弟子たちは、先を進まれたイエスに倣うことによって「嵐」を乗り越えられたのに、イエスに従わなかった故に、恐れてしまい、イエスから「信仰薄い者よ」と叱責されたのであった。

 12年間の長血を患った女性は人間に従うのではなく神に従うイエスの後について行ったから、その病気を克服したのであった。イエスは彼女に言った、「あなたの信仰があなたを救った」と。

 癒されて、感謝しながら戻ってきた人は、彼の人生すべてが神と共にあったのだ。
 苦難も喜びも神の導きに従ったゆえに、克服し恵まれと人生を見ていたのだ。
 今、世界は困難にある、打開するために神の言葉に耳を傾け従って行こう。 
今週の一句
派遣村 明かり広がる 十六夜

―もとゐ―


 2013年10月20日(日)
 年間第29主日

 ルカによる福音書18章1節-8節

18,1 〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18,2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18,3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18,4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18,5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18,6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18,7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18,8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 旧約聖書では、寡婦は孤児、寄留人と一緒に表される弱い立場の人々の代表だ。その寡婦が裁判官に、しきりに嘆願していることから、不当な状況下におかれていることが想像できる。あの出エジプト記では、奴隷であったヘブライの民の嘆きを神が聴かれ、降りていった、とあることやイエスが病人たちの訴えを聴き、行動したことに連想が行く。旧約聖書の神は、人間をあるべき姿に導くものだ。

 言い換えれば、人はその状態から外れているとき、ここでは、寡婦の状態、それを正しい、つまり、寡婦が平等に扱われる方向へ変えて行かねばならないのだ。神の導きとは、人がそれに従って生きて行くということ。

 従って、「祈り」とは弱い立場の人々の訴えであり、それに耳を傾け、取り上げて行くこと。祈り続けろとは、現在の不正不当を訴え、抗議し、行動し続けること。     
今週の一句
独り身や 帰宅待ちけり 金木犀

―もとゐ―


 2013年10月27日(日)
 年間第30主日

 ルカによる福音書18章9節-14節

18,9 〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18,10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18,11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18,12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18,13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18,14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 聖書の人間観は「神の前では、人はみな自由、平等、独自な存在である」と言われる。イエスが「神の国はあなた方の間にある」、と言ったのは、それを実現しようとする人間相互の関わりが神の国である、からだ。今日の神殿で祈った二人の間はどうであったか。前者のファリサイ派は確かに律法には忠実なユダヤ教徒にちがいない。けれど、彼の視線の先には、重荷を負わされ、悲しみに打ちひしがれた徴税人の姿はいなかった。むしろ、拒否、差別した上で、自分を誇っていた。ユダヤ教の律法の元来の意味を忘れていたのだ。他方、徴税人はイエスが彼らの仲間と言われるように、イエスがその重荷を軽くしようとされた「貧しい人」の一人であった。

 イエスに倣おうとする私たちは、祭儀だけに熱心になって誇るのではなく、イエスと同じく重荷を負わされた人との関わりを大事にしたい。          


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