ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年9月1日(日) 年間第22主日 ルカによる福音書14章1節、7節-14節
狭い戸口から入れ、は人間に従うのではなく神に立ち返り、従うことであった。イエスは人間が作り上げた政治・経済・宗教体制の下で、疲れた者、重荷を負う者を休ませ荷を軽くするために働いた。(マタイ11・29)また、貧しい者へ福音を伝え、囚われ人を解放するため働いた。(ルカ4・17) それは、まさに安息日の意義を実現することであった。即ち、安息日は奴隷や家畜を休ませるためのものであった。(出エジプト23・12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。) 婚宴や晩餐は、安息日、比喩と考えれば、イエスの為された働きを意味する。パウロ時代には、「主の晩餐」(=今日のミサ)と一緒に行われた「愛餐」と呼ぶ、貧しい人を配慮した食事会が行われていた。(第一コリント11、17〜)イエス、原始キリスト教の行いから現代の教会は見直さねばならない。 |
2013年9月8日(日) 年間第23主日 ルカによる福音書14章25節-33節
イエスは「貧しい者に福音を伝える」ために活動した。そのため、仲間を集った。弟子と言われる人だ。招かれた弟子たちは、父、船、故郷を捨てたと書かれている。また、イエスは弟子志願した者に「枕する所はない」、「死人の葬りは他者にまかせろ」、「暇乞いする間もない」と言って、その困難さを指摘した。更に、イエス自身は母や兄弟から気が狂ったと思われ、故郷の村人からは歓迎されなかったと書かれている。あるいは、イエスは平和ではなく分裂をもたらすために来た、とまで語る。と言うことは、「貧しい者への福音」は誰からも歓迎されない、むしろ、非難、断罪、迫害されることであった、と原始キリスト教団はイエスの生涯を見ていたのだ。 だから、イエスの弟子への道は誰もが出来ることではない、つまり、キリスト信者の道は、いわば、癒しとか平安を得ることではないと教えるのだ。日本の殉教時代を考えれば、誰もキリスト信者にはならない。にもかかわらず、今、クリスチャンであることは何を意味するのだろうか。 |
2013年9月15日(日) 年間第24主日 ルカによる福音書15章1節-10節
イエスは「徴税人や罪人」を招き食事した。これは、当時のユダヤ教指導者たちがことさら非難したように、彼らにとって「正しい」ことではなかった。「徴税人や罪人」と言われるのは、律法を守らない人を言い、現代の日本人が考える犯罪人のことではない。律法とはユダヤ人の生活全般にわたる指針を神が示されたと言われるもの。イエス時代には630余の細目に分けられていて、それを守られるのは一部裕福な生活に余裕のある階層の人々でしかなかった。当時の95%は極貧に喘ぐ飢え病む人々であり、それら律法を守れる余裕はなかった。つまり、「罪人」と呼ばれるのは無信仰とか怠惰の理由ではなく、彼らを貧しくさせている社会構造、つまり、支配者の搾取、差別にあったのだ。(「放蕩息子の譬え」はその視点が弱い話になっている。) だから、イエスの「罪人」との交わりは、支配者層への批判にある。神は人を支配する者と被支配される者とに分けて創られたのではない、平等に、「神の似姿」に皆等しい者として創造された、従って、互いに尊重し助け合うのが人間の在り方だ、それがユダヤ教本来の思想ではないか。それをお前たち支配者たちは神に背き、自分たちは不自由なく、飽食に暮らしながら、ある人たちを貧しくし「罪人」と呼び不平等に扱っている、神に立ち返れ、とイエスは叫んだのだ。 今の教会は貧しい人、虐げられた人々と積極的に迎え、食事を共にしているだろうか。イエスに立ち返ろう。 |
2013年9月29日(日) 年間第26主日 ルカによる福音書16章19節-31節
イエスが「徴税人や罪人を招き、食事する」ことは、人は誰しも大切にされねばならない、と示す神に従う故であった。というのは、イエスの目にする人々は、飢え病み裸であった。彼らは嫌われ見捨てられていた。イエスは彼らが人として大事にされ生きられるようにしたかった。それこそ、神のみ旨である正義と公平であったから。 彼らを貧しくし、裸にしているのは金もあり地位もある人々の利己主義的生き方であった。 乞食ラザロの譬え話は神へ立ち返ること、即ち、貧しい者への積極的関心、関わりをするようにと私たちへ呼びかけている。 |
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