ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年8月4日(日) 年間第18主日 ルカによる福音書12章13節-21節
「主の祈り」はイエスが弟子たちと共に唱える合言葉、スローガン、モットーと言われるもの。つまり、彼らはそれを口に繰り返すことにより、自分たちの使命、方向を確認したのだ。教会はまた「主の祈り」を唱える、そこに教会の存在理由がある。 イエスの周りにいた人々の日毎のパンが与えられるために、為すべきことは持っている者がその一部を出し合うこと、分かち合うことしかできない。5000人の飢えた人が5つのパンと二匹の魚で満腹した、との物語はそれを象徴している。社会の成員がそれぞれ分かち合い、負債を免除し合うならば、明日への思い煩いはしなくなる。 「主の祈り」を唱えるならば、自分の老後を心配することから解放される。なぜなら、互いに助け合おう、と祈るのだから。 |
2013年8月11日(日) 年間第19主日 ルカによる福音書12章32節-48節
「明日を思い煩うな」のイエスの言葉は、私たちの人生の方向を転換させる。その大金持ちのようにこの世で財をどう作り、蓄えるかを良いとする人生から、天に宝を積む人生へと目を開かせる。「天に宝を積む」とは、限りある人間の価値ではなく、それを越えた価値、即ち、イエスが目指した万人が大事にされることを己の人生の目標にすることだ。従って、主人に忠実に従う僕と同じく、私たちはイエスの言葉をよく聴き応えなければならない。あのサマリア人、マルタ・マリア、主の祈りの意味するところのように。 |
2013年8月18日(日) 年間第20主日 ルカによる福音書12章49節-53節
今の日本では、自分の身は自分で守るしかない。それで、明日を思い煩うことで精一杯となる。他者の不幸を見ても、それどころじゃない、と言うしかない。イエスも父親代わりに、兄弟姉妹の面倒で精一杯だったに違いない。それども、イエスの眼は、周りの重荷を負った人々に向いてエルサレムへの道を目指した。母、兄弟姉妹、親せき、村の人々は困惑し引き留めただろう、「親不孝者」と。 イエスに従うことを選んだキリスト者とはその同じ道を歩むことに招かれた者と言うこと。その招きに、私たちはどのように応えられるのか。考えて行こう。 |
2013年8月25日(日) 年間第21主日 ルカによる福音書13章22節-30節
イエスは悔い改めを勧めた。即ち、神への立ち返りをしなければ、禍に会い、実のならないイチジクのように切り倒されてしまうと。また、イエスは救われたければ、狭い戸口から入るようにと言う。つまり、狭い戸口とは、神への立ち返りのこと。神への立ち返りは、神の言葉に従って生きること。そこに、幸いと命を見い出したのが旧約の民であり、神と契約を結んだのであった。しかし、他の神々、バアル即ち所有の神に従ったため祖国を失い、離散の民となってしまった。バアル神崇拝によって、古代イスラエル王国には強者と弱者、富者と貧者の格差生まれ、後者は前者から不平等に扱われ、飢えと貧困、流浪の生活を余儀なくされたのであった。イエス時代には、更に、律法の重荷を負わされ苦難を強いられた。その神に反する生き方をイエスは批判したのだ。 今日の世界も同じく物神崇拝に席巻されている。イエスの言葉をキリスト者は心に留めなければならない。 |
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