ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年7月7日(日) 年間第14主日 ルカによる福音書10章1節-12節、17節-20節
イエスと出会った人々はイエスの働きがサタンを打ち負かしたものと見えた。サタンは人間を非人間にする力と言う。病気や貧しさ、職業ゆえに共同体から排除され、人間として扱われなかった彼・彼女らはイエスが自分たちを分け隔てなく、人として認め関わったその姿に、どれほど生きる意味と勇気、希望を見いだしたことだろう。 現代日本は人を役に立つか、立たぬかで峻別する。しかも、どちらとも生き難くなっている。72人の弟子はまさに非人間化に置かれ排除され、小さくなって生きざるを得ない人々のもとへと遣わされたのだ。教会の使命もそこにある。始まった参議院選挙もその視点から考えよう。 |
2013年7月14日(日) 年間第15主日 ルカによる福音書10章25節-37節
イエスの下には様々な人々が訪れた。飢え、渇き、病み、裸で貧しい人たちがサタンから解かれるために。また、今回のような律法学者、朝から晩まで一日中、律法、即ち、神の言葉、掟の現代化のため研究している者が。前者はイエスに具体的な助けを、後者は精神的な必要を満たすため、どちらも、「命」の充実のためと言えるが、彼らはそのためイエスのもとに来た。しかし、後者の律法学者は純な心ではなく、イエスを試し、イエスを笑いものにしようと悪意を持って、イエスに論争をしかけたにすぎない。 さて、「命」の充実には、律法学者のような衣食住足りた人(まさに日本人クリスチャン)は自分の生きる意味とか価値を見い出したいのではないか。イエスのその答えは「隣人になれ」、であった。「隣人になれ」とは相手にとって必要な者になる、と言うこと。サマリヤ人のように、我が身の危険を顧みない事、時間労力を惜しまない事、等々。祭司やレビ人のように自分を優先しないこと。自分の「命の充実」を求めた結果、他者の「命の充実」に自分の命を削ることとなる。 イエスやサマリア人は隣人になった、が、祭司やレビ人はなれなかったのは何でだろうか。それはイエスやサマリア人は旅をしていた、祭司やレビ人は定職定住がったからではないか。つまり、守るべきものがないことと守るべきものがあること、それが「隣人になる」かならないかの決定的違いではないか。やはり、信仰とはドグマを信じることではなく、生き方全体なのだ。イエスに倣うクリスチャンの道まだまだは程遠いが、近づきたい。 |
2013年7月21日(日) 年間第16主日 ルカによる福音書10章38節-42節
イエスの「隣り人になれ」の招きは、私たちの目を内から外へと向けさせる。律法学者と同じく、自分が愛するの「隣人」は誰かと対象者を捜していた。つまり、自分に都合のいい相手を「隣人」として関わっていた。相手の意向はともかく、自分が良かれと思うことだけを行っていた。だから、仕事の忙しい祭司やレビ人は通り過ぎたのであった。マルタもイエスの思いではなく、自分の思い、自分を中心にして相手をそれに従わせようとした。「隣り人になる」には必要なことはただ一つ、それは、まず、相手から話を聞く、想像すること。 |
2013年7月28日(日) 年間第17主日 ルカによる福音書11章1節-13節
イエス時代のユダヤでは全人口の95%が飢え、病み、負債の重荷に喘いでいた。彼・彼女らを前にイエスは心痛めた。しかし、彼一人では何も出来ない。彼は神に祈るしかない。「日毎のパンをください」「負債を免除してください」と。しかし、彼は神にお願いするだけではなかった。働き、仲間を集めた。願うだけではなく、自分たちが行うべきこと、目指すべきことを毎日祈り口にすることを。そうして、自分たちが何者であり、何のために集まっているかを思い起こしたのだった。飢えた人々とパンを分かち合ったエピソードはそれを示している。 「主の祈り」は言わばイエスに従う者たちの合言葉、口にする度に、自分が何に呼ばれているか思い起こそう。 |
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