ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年6月2日(日) キリストの聖体 ルカによる福音書9章11b節-17節
今、多くの人々が飢えている。第三世界と言われるところはむろん日本においてさえ、先日の大阪での母子が飢えて亡くなっていたことは悲しい。イエスにパンの奇跡を待ち望む人々は多いことだろう。しかし、今も昔もイエスはパンを増やしてはいない。イエスは飢えた人々と関わろうとしなかった。自分らの食い物がなくなるからと。そんな弟子たちにイエスはパンをやれと諭される。私たちは飢えた人を見たとき、神に祈る、パンを与えてくださいと、自分のパンを差し出さずに。 こんな私たちにイエスは呼びかける、「分けよ」と。旧約聖書の申命記※にあるように、飢えた人々がいなくなるには、まず、関心とたとえ、僅かであっても持っているものを差し出すことからはじめよう、とイエスは呼びかけている。 ※あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、そのために、あなたはあなたのかみ、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。…あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。(申命記15・4−8) |
2013年6月9日(日) 年間第10主日 ルカによる福音書7章11節-17節
死は人には避けられない定めだ。けれど、誰もが自他の死を逃れたいと思っている。己の死は受け入れられないし、他者の死には無力だから。それ故、今日のイエスが死者を蘇生したという物語は朗報だ。イエスは死に打ち勝つ方であるとの信仰は魅力だ。しかし、そんな事はあるわけがない。イエスを信じた人は死ぬし、愛する人の死も防げられなかった。では、今日の聖書箇所をどのように考えたらよいのか。まず、イエスの病気治癒伝承が残っていることは、ガリラヤの病み、飢えた貧しい人々にとって、イエスは神から遣わされた奇跡行為者であったのだ。福音書を著した人は、その伝承のイエスに更に、旧約聖書の預言者エリヤ伝(やはり寡婦の息子を生き返らせた。列王上17章)を使ってイエスをエリヤに準えたのだ。物語の終わりに、「大預言者が現れた」との賛美の声がそれを示している。 ともかく、ガリラヤの重荷を負わされた人々にとって、イエスはその荷を軽くされた方であった、ことは私たちイエスに従おうとする者には意味がある。つまり、私たちは困難にある人々、今日のような、子を失くした母親の傍らに立つ、ことを教えているのだ。 |
2013年6月16日(日) 年間第11主日 ルカによる福音書7章36節-8章3節
今日のある女性の油注ぎの話しは「徴税人や罪人の仲間」と揶揄されたイエスのその姿を示している。 イエスを招待した主人はこの女性を「罪深い女」とのレッテルで見下していた。だから、女性の勝手な振る舞いを咎めず、イエスの評判を落とすためのいい機会として女性を利用した。他方、イエスは世間的評判に縛られず、この女性のなすがままに任せた。なぜなら、深い心の交流が彼女との間にすでにあったから。イエスは人との交流を「徴税人」「売春婦」「罪人」と言うレッテルに囚われず、その独自性を持つ一人として交流した。 イエスとの交流を持った人々は驚かずにはおれなかった。今までこんなことはなかった、と。世間的には許されない女性の油注ぎは、その深い交流への、言わば、神への感謝の礼拝行為ではなかったろうか。何が何でも感謝せずにはいられなかったのだ。 イエスは「重荷を負わされた人」の荷を軽くされる。人生を前向きに生きられるようにされる。教会も倣おうではないか。 |
2013年6月23日(日) 年間第12主日 ルカによる福音書9章18節-24節
イエスは行く先々の病人を癒し、空腹を満たし、嵐を鎮めた。イエスは同行してきた弟子たちに、お前たちは私を誰だと思うか。油をイエスの足に塗った女の逸話のように、確かに、ガリラヤの貧しい人々にとってはイエスは幸いを齎した人であっただろう。しかし、イエスは単なる奇跡行為者、慈善家ではなかった。なぜなら、そのイエスはユダヤの支配者やローマ帝国からは秩序を破壊する政治犯として危険視され処刑されたのであった。社会が排除し、差別し、収奪する底辺層の人々が全うに生きられるよう努めたイエスは権力側からは邪魔であったのだ。 福音書はそのイエスに従うよう、弟子たち、そして私たちを招いている。 |
2013年6月30日(日) 年間第13主日 ルカによる福音書9章51節-62節
イエスは私たちの既成の価値を変える旅に招く。神は私たちが求める、暮らしの安定、安心、満足から離れる、出るよう呼びかける。アブラハムへの召し出し、出エジプトへの呼びかけ、ペテロたちの招きに見られる。故郷、父の家、エジプト、定職、船、家族からの出発が、私たちの頼る安定、安全、即ち、「定住」から離れることを示す。「定住」衣食住・職を維持するために、私たちはエジプトにいるように奴隷であることを望む。 安部政権の勧める経済成長戦略では10年後に収入を150万円増やすと言う。この甘い水には誰もが反対しないだろう。けれど、そのためには、原発再稼働、憲法改正、戦争という苦い水を飲めと誘うのだ。まさに、イエスの荒野に試み、全世界の栄華をお前にやろう、ただし、悪霊である俺を拝め、を思い起こす。 しかし、その奴隷に留まることをよしとせず、自由へと荒野を旅したのがヘブライ人であった。ヘブライの民の末裔であるイエスも、貧しく飢え病気の人々が人間らしい人生を送られるよう、今の生き方でいいのかと、イエスは私たちに呼びかけるだ。 |
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