ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
朝の街 溢れし光 躑躅かな

―もとゐ―


 2013年5月5日(日)
 復活節第6主日

 ヨハネによる福音書14章23節-29節

14,23 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14,24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14,25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14,26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
14,27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
14,28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
14,29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」

 聖書の「平和」は、所謂、戦争のない状態を意味しない。神と人との契約が履行されている状態を指す。具体的には、神の指示する言葉、掟、律法が守られている様を言う。従って、例えば、貧しい者が顧みられず、飢えているなら、それは「平和」ではない。

 今日のイエスが「平和」を与える、の言葉は、弟子たちがイエスとの契約を守ることによって与えるとを意味する。即ち、新しい掟「愛し合え(=大切にし合え)」を行うことが「平和」になるのだ。現代は日中、日韓問題、また、ボストンの爆弾テロが示す国際関係のように、更に、国内の格差問題のように共存の困難さが深刻になっている。その中にあって、キリスト者の意義は大きい。互いを尊重する生き方をして行こう。 
今週の一句
筍や 目と舌と香の 三重奏

―もとゐ―


 2013年5月12日(日)
 主の昇天

 ルカによる福音書24章46節-53節

24,46 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた聖書には〕「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24,47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24,48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24,49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
24,50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24,51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
24,52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
24,53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 イエスの昇天とはフィリピの信徒の手紙にあるように、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、」を意味する。現代世界は経済的豊かさを「主」と呼び、ひざまずいているのではないか。そして、より豊かになるため、他者、環境を犠牲にすることを憚らない。原発がその一例だ。その苛烈な生き残り競争のなか、キリスト者であるとは、イエスのように虐げられた者、重荷を負わされた人々と命と富を分け合う生き方をすることではないか。それが、今日イエスが「主である」と告白する意味ではないか。
  
今週の一句
夕暮れて 田毎に揺れる 街の灯り

―もとゐ―


 2013年5月19日(日)
 聖霊降臨の主日

 ヨハネによる福音書14章15節-16節、23b-26節

14,15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
14,16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
14,23b わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
14,24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
14,25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
14,26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

 聖霊の授与は、弟子たちを奮い立たせ、宣教へと向かわせた。(ヨハネ20・19〜)イエスも主の霊を受けて自身の使命が貧しい者への福音宣教であることを知った。(ルカ4・16〜)このように、主の霊、即ち、神の命の息を与えられたと思う者は自分の人生の意味、目的を見いだす。それは、イエスと同じく他者と共に生きることを。聖霊は知恵、識別、思慮、勇気、主を知り、畏れ敬う霊として「共にある生」を不断に追求実現する者を導く。

 弱肉強食が一層強化される現代世界にあって、「共生」を目指すキリスト者は知恵を尽くすことに招かれている。 
今週の一句
先へ行く 田植え機続く 稲の子かな

―もとゐ―


 2013年5月26日(日)
 三位一体の主日

 ヨハネによる福音書16章12節-15節

16,12 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16,13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16,14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16,15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 ユダヤ教からは二つの宗教が生まれた。そのうち、イスラム教とユダヤ教では神は唯一である。しかし、キリスト教では神は三つにて一つ、と言う、その思弁は神学者にまかせよう。イエスも多分そんな屁理屈をこね回して、神を認識したのではないだろう。

 私たちの日々の生活は、理性的論理的と言えるものではなく、空気とか気とか言われるものに従って行われるのではないか。今の日本のように、「景気が上向いている」とかの声高な言説に乗っかってしまってい、考えること分析することを怠りって、思考停止になってしまう。ついて行かなければ、勝ち馬に乗り損ねてしまうからと。

 イエスはどうだったろうか。空気にしたがうのではなく、冷静に周りを見渡し、聖書・神の言葉を研究、分析し、行動したのではないか。このイエスの生き方が三位一体なのではないか。

 私たちも空気に流されて、権力者に言いなりになるのではなく、知情意を一体化させ、批判的建設的愛情いっぱいに生きようではないか。  


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