ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年5月5日(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書14章23節-29節
聖書の「平和」は、所謂、戦争のない状態を意味しない。神と人との契約が履行されている状態を指す。具体的には、神の指示する言葉、掟、律法が守られている様を言う。従って、例えば、貧しい者が顧みられず、飢えているなら、それは「平和」ではない。 今日のイエスが「平和」を与える、の言葉は、弟子たちがイエスとの契約を守ることによって与えるとを意味する。即ち、新しい掟「愛し合え(=大切にし合え)」を行うことが「平和」になるのだ。現代は日中、日韓問題、また、ボストンの爆弾テロが示す国際関係のように、更に、国内の格差問題のように共存の困難さが深刻になっている。その中にあって、キリスト者の意義は大きい。互いを尊重する生き方をして行こう。 |
2013年5月12日(日) 主の昇天 ルカによる福音書24章46節-53節
イエスの昇天とはフィリピの信徒の手紙にあるように、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスのみ名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、」を意味する。現代世界は経済的豊かさを「主」と呼び、ひざまずいているのではないか。そして、より豊かになるため、他者、環境を犠牲にすることを憚らない。原発がその一例だ。その苛烈な生き残り競争のなか、キリスト者であるとは、イエスのように虐げられた者、重荷を負わされた人々と命と富を分け合う生き方をすることではないか。それが、今日イエスが「主である」と告白する意味ではないか。 |
2013年5月19日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書14章15節-16節、23b-26節
聖霊の授与は、弟子たちを奮い立たせ、宣教へと向かわせた。(ヨハネ20・19〜)イエスも主の霊を受けて自身の使命が貧しい者への福音宣教であることを知った。(ルカ4・16〜)このように、主の霊、即ち、神の命の息を与えられたと思う者は自分の人生の意味、目的を見いだす。それは、イエスと同じく他者と共に生きることを。聖霊は知恵、識別、思慮、勇気、主を知り、畏れ敬う霊として「共にある生」を不断に追求実現する者を導く。 弱肉強食が一層強化される現代世界にあって、「共生」を目指すキリスト者は知恵を尽くすことに招かれている。 |
2013年5月26日(日) 三位一体の主日 ヨハネによる福音書16章12節-15節
ユダヤ教からは二つの宗教が生まれた。そのうち、イスラム教とユダヤ教では神は唯一である。しかし、キリスト教では神は三つにて一つ、と言う、その思弁は神学者にまかせよう。イエスも多分そんな屁理屈をこね回して、神を認識したのではないだろう。 私たちの日々の生活は、理性的論理的と言えるものではなく、空気とか気とか言われるものに従って行われるのではないか。今の日本のように、「景気が上向いている」とかの声高な言説に乗っかってしまってい、考えること分析することを怠りって、思考停止になってしまう。ついて行かなければ、勝ち馬に乗り損ねてしまうからと。 イエスはどうだったろうか。空気にしたがうのではなく、冷静に周りを見渡し、聖書・神の言葉を研究、分析し、行動したのではないか。このイエスの生き方が三位一体なのではないか。 私たちも空気に流されて、権力者に言いなりになるのではなく、知情意を一体化させ、批判的建設的愛情いっぱいに生きようではないか。 |
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