ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年4月7日(日) 復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19節-31節
イエスの死によって、まさに、孤児になった(ヨハネ14、18を参照。わたしはあなたがたをみなしごにしてはおかない。)弟子たち。頼るべき人、行く道を失い深淵に落ちた弟子たち。彼らをそこから引き上げるものはあるのだろうか。 長い長いトンネルを経て、彼らが見いだしたもの、それは、イエスであった。イエスが父である神の言葉に従って、十字架の道を歩んだその姿に彼らは暗闇からの脱出が出来ることを発見したのだった。即ち、イエスは詩編19章の「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える」の言葉に生きたのであった。 弟子たちは、イエスとイエスが従った神の言葉、律法に従うことを新たに決意したのだ。それが、彼らの「復活」となった。 |
2013年4月13日(日) 復活節第3主日 ヨハネによる福音書21章1節-19節
弟子たちの生活全般、食べること、仕事すること、他においてイエスは生きておられる。イエスの声が彼らの日々の生活を導いて行く。旧約聖書の人々にとって、「神」とは人生、生活の指針だ。私たちのように、日曜日のミサの時、苦しい時、何か願う時にだけイエスを必要とするのではない。安部首相の言葉にではなく、イエスのことばを聴こう。誰もが大事にされるために。 |
2013年4月21日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章27節-30節
イエスは羊飼い、私たちは羊。羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いは羊の声を知っている。それは、旧約聖書での神と人間の関係を「契約」と呼ぶことを言い換えている。「機械仕掛けの神」のような、一方的、依存的、御利益ちょうだいの関係ではなく、自由と責任を相互に持つ関わりだ。私たちはイエスと「契約」する、つまり、イエスが目指した「自分と他者を大事にして生きて行く理想社会」を自分が目指すならば、イエスはいっしょに私たちと歩まれることを。目指しながら、何もしなければそこに到達できないのはイエスが悪いのではなく、自己の責任であることを承知している。羊はその羊飼いに従えば、草と水が得られると確信するから、その声に聴く、しかし、聴かなければ、得られないし、野獣に襲われるしかない。 この世の指導者は利己主義者だ。弱い立場の者を犠牲にして生きて行く。私たちが従うべき方は、友のために命を捨てた方ではないか。 |
2013年4月28日(日) 復活節第5主日 ヨハネによる福音書13章31節-33a節、34節-35節
ヨハネ福音書では、イエスは栄光を受けた、イエスによって神が栄光を受けた、のように、イエスの十字架死とそれに至る生涯を「栄光」と言う。その「栄光」とは3章16節の人がイエスを信じることによって、滅びではなく永遠の命を得られる、と言うこと。しかし、イエスを信じるとは、新しい掟を守るようにとのイエスの言葉を守ることに尽きる。。ただ、み名を唱えるだけではない。 従って、キリスト者とは端的に「互いに愛し合え」を人生の指針として生きる者に他ならない。現代の混乱する世界にあって、この生き方こそが平和と和解、調和を齎すことを信じる。まさに信仰宣言とはそのことだ。キリスト者の私たちは大きな義務を負っている。 |
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