ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年3月3日(日) 四旬節第3主日 ルカによる福音書13章1節-9節
イエスは貧しい者たちに福音を告げた。即ち、あなたがたは幸いである、神はあなたがたが大切にされることを望んでいる。あなたがたを捕えているものから、あなたがたを自由にすることが私の使命である、と言われた。したがって、「悔い改めなさい、さもなければ滅びる」とのイエスの言葉は、貧しい人たちを捕えている、貧しくさせている者たちに向けられているのだ。「悔い改め」とは、神の呼びかけに応答する、本来の人間の在り方へ戻ること。つまり、神との契約の履行のこと。神は人に呼びかけている、「善を求めよ、善を愛せよ、正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。」(アモス5章)「わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記15章) 恵まれた私たちは感謝して、この神の呼びかけに応えよう。でなければ、ますます、貧困者は増えて行くばかりだ。 |
2013年3月10日(日) 四旬節第4主日 ルカによる福音書15章1節-3節、11節-32節
「放蕩息子」のたとえ話に出ている三人の登場人物の誰が自分であるかと思い読むと面白い。さて、弟はどん底に落ちて初めて気づいた「天にたいしても、父にたいしても罪を犯した」と。それでは、弟の告白した「罪」とは何だったのか。家を出たことか、金を使い果たしたことか。それではない、弟は人間の基本的在り方を拒否し、自分の思いだけに生きたことではないか。つまり、聖書では人は神の言葉に応答することがその生き方であるから。 イエスは徹底的に神の言葉に生きようとしたから、それを拒否する人々から殺害されたのであった。なぜなら、拒否した人々は自己の欲望を満たすやめに生きたからだ。まさに、弟は自分の思いに従って破滅したのだ。他方、兄はなぜ、自分が父に従って来たのか意味を見いだせなかった。父の思いは、二人の息子たちが、人の本来の生き方に意義と喜びを見いだすことを待ち望んでいた。聖書の「神の憐み」はこのことを指す。 私たちはイエスの生き方に意味と喜びを見いだしているだろうか。「キリスト教信仰」とはそのことだ。 |
2013年3月17日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書8章1節-11節
父は息子たちが、人間の本来的生き方、即ち、神の言葉を指針として生きることに戻るよう忍耐強く待っている。 人が他者を裁く、つまり、人を「罪に定める」ことに対し、今日の箇所は疑問を投げかけている。父と息子たちの関係は、互いにゆるしあうことにしか、互いに生きてられない、ことを意味するのではないか。でなければ、相手を罪に定め、生きることをゆるさない、つまり、命を取ることになるのではないか。父は弟息子を、兄は弟と父を、父は兄を、という具合に。それでは、誰も生きては行けない。顧みれば、人間関係はゆるしあいに成り立っているのだ。それは、聖書の人間創造の話しでは、「人に相応しい助ける者」としてパートナーを創られた、とあることからもわかる。 「誰も石を投げるものはなかった」とは自分も投げられる者であることに気づいたからではないか。神の言葉、「自分を愛するように人を愛そう」に思いめぐらそう。 |
2013年3月24日(日) 枝の主日 ルカによる福音書19章28節-40節
いよいよ福音書のクライマックス。受難劇と呼ばれるように福音記者たちは、イエスの最後をドラマに構成した。従って、私たちは史実として読むのではなく、何を語ろうとしているのかを読み取りたい。 エルサレム入城、平和の徴であるロバに乗った王としての入城。較べれば、圧倒的軍事力を誇示してのローマ帝国の入城。アメリカ合衆国のイラク攻撃を連想する。それによって11万人以上のイラク人が殺されている。大多数は女子供の民間人だ。いつも犠牲にされるのは弱い立場の人だ。今や、日本は平和憲法を改悪してその合衆国の戦争に参加しようとしている。そして、刃向う者を軍事力で制圧するのだ。 イエスは非暴力無抵抗主義で敵地へ向かわれた。日本の針路はそこにある、と訴えるのがキリスト者なのだ。 |
2013年3月31日(日) 復活の主日 日中のミサ ヨハネによる福音書20章1-9節
ガリラヤの民衆が飢えと病いから解放され、当たり前の人生となるよう、イエスは関わられた。しかし、それを望まず、民衆を搾取と差別の対象とするユダヤ教支配者たちによって、イエスは捕えられ処刑された。いつの世も、支配者たちは自己の権力と栄華を守ることが第一で、他者の命とか人権を犠牲にする。先の大戦の敗戦直後の日本の指導者たちは、天皇政存続ばかり考え、沖縄、広島、長崎、他の甚大なる犠牲を食い止められなかった、ように。 イエスに人として生きる希望と勇気を与えられたガリラヤの民衆は、イエスの死で止まらなかった、死を乗り越えて、誰もが平等に豊かに生きられる世界を目指し、今も続いている、つまり、イエスが生きつづけられているのだ。それを「復活」と呼ぶ。 |
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