ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年2月3日(日) 年間第4主日 ルカによる福音書4章21節-30節
「預言者は故郷では敬われない。」「預言者」と呼ばれる人がどのような者であるかは分からないらしい。なぜなら、職業的預言者(王に仕える者)がいて、それは世襲制だったと言うから。従って、ある学者は「叫ぶ者」ではないかと言っている。確かに、洗礼者ヨハネを荒野の「叫ぶ声」と福音書にはある。旧約聖書に出てくる預言者は人々から歓迎される言葉を発するのではなく、むしろ、政治指導者たちに警告し断罪している。例えば、エレミヤはそのために投獄され殺されかけている。洗礼者ヨハネもヘロデ王を非難したため殺害された。つまり、職業的預言者と違い「叫ぶ者」はおもねる言葉、心地良い言葉ではなく、耳の痛い、周章狼狽する言葉を発するが故に拒否、拒絶されたのだ。イエスも同じく貧しい者たちには福音であったが、惰眠をむさぼっている人には都合の悪い言葉であったのだ。教会も生ぬるい言葉ではなく、目を覚まし、行動を起こす言葉を語らなければならない。 |
2013年2月17日(日) 四旬節第1主日 ルカによる福音書4章1節-13節
イエスへの荒野での悪魔の試みは、聖書の民が荒野を旅して、神に従う人生とは何かを教えたようにイエスの生涯が何であったか、そして、イエスに従う私たちキリスト者の人生が何であるかを教えている。 そもそも、私たちは神に何を望んでいるだろうか。飽くなき経済的豊かさではないだろうか。それに対しイエスは豊かさを飽くなき求めるのではなく、神のことばに従って求めよ、と言う。 次に、権力を持つこと、一番になること、人の上に立つことを求めていないだろうか。しかし、イエスは僕に、足を洗う者になれ、命を分かち合おう、と勧められる。 また、神に奇跡的力の行使を求めてはいないか。つまり、無病息災を。それに対し、イエスは神を試みるな、言い換えれば、人間に都合のいい神にするなと教える。 誰もが安楽な人生を望むけれど、悪魔に膝を屈むこととなる。悪魔から解き放つのは、イエスのように神の言葉だ。キリスト者とは神の言葉に己を賭ける人を言うのだ。 |
2013年2月24日(日) 四旬節第2主日 ルカによる福音書9章28b節-36節
イエスへの信仰は、イエスの十字架の道を歩むこと。それは、モーセの指導者として荒野の道を歩んだこと、また、エリヤがアハブ王からの迫害を受けながらも、神に立ち返ることを告げたように、倣うことだ。ペテロのように、イエスのための神殿を建立し、奉ることではない。神殿とはそもそも肥沃宗教のシンボルであり、五穀豊穣、国家安泰、経済的豊かさを願うところ。従って、イエスは人々にそれを齎す神ではないから、ペテロの神殿建立を拒否したのだ。教会もイエスを拝み、富を願うところではない、イエスの生涯を振り返り、ついて行く所なのだ。 |
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