ももちゃんの一分間説教 バックナンバー |
2013年1月1日(木) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
聖書では神と人との関係を「契約」と表す。つまり、神は裁く恐ろしい方なので、地獄に落ちたくないなら、理解不可能なことでも信じなさい、と言うのではなく、神が指し示す人生の指針を納得して受け入れ、それに従って歩むことを約束すること。イエスはその道を歩まれた先駆者だから、敬い従って行くのがキリスト者となる。 それでは、神がそしてイエスが十字架刑死までもして目指した人生とは何か。「神の前では人は誰もが平等であり、自由で独自な存在である」ことの実現がそれだ。母マリアが思いめぐらしたことは我が子がその道を歩む者になるように、であっただろう。 カトリック教会の使命も同じ。安部首相ら自民党がもくろむ戦争の出来る国、原発維持、格差拡大は神とイエスの目指すものとは真逆の道、新年にあたり教会は十字架を担ぐ覚悟を新たにしたい。 |
2013年1月6日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
旧約聖書では王政への批判がある(サムエル上8章)。王に従うのではなく、越えた「神」に従うよう勧められている。この世のものの絶対化により、人間は奴隷となる。例えば、独裁者、科学技術、経済。 三人の博士が従ったもの、ヘロデ王や官僚ではなく星、つまり、神の声であった。イエスの父も宗教や道徳ではなく神の声であった。教会はまず神の声を聴くことから始まよう。 |
2013年1月13日(日) ルカによる福音書3章15〜16節、21〜22節
洗礼者ヨハネのもとへ洗礼を受けにイエスが行った。齢30の頃と言われている。人生の盛りに、洗礼を受けるイエスの心境は何だったのか。ローマ帝国の支配下、飢え病む人の多い貧しいガリラヤ地方での生活でイエスは何を感じ、悩んでいたのか。小説家の想像力を駆り立てることだろう。重荷を負った人々を前に、何とかして軽くしてあげたい、との思いがあったのではないか。既存の宗教は何故、人々にそんな重荷を負わせているのか、その神は本物なのかと苦悶していたかもしれない。それで、ヨハネのもとへ教えを乞いに行ったのだろう。 私たちも、混迷する現代世界に光を求めてイエスのもとへ行こう。古い殻を脱ごう。それが「洗礼」なのだ。 |
2013年1月20日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書2章1節-11節
イエスが水をぶどう酒に変えた奇跡物語、それは、当時絶大な人気を誇っていたディオニソス神、酒の神として3本の瓶の水をぶどう酒に変えたその神よりもイエスは力ある方だと示す物語。同時に、水は古い生き方の象徴で、ぶどう酒は新しい生き方の象徴。従って、イエスは人々に従来の在り方、考え方ではなく、新しい見方、考え方、生き方を齎した方だと教えている。それを、ヨハネはイエスがモーセの律法に対し「恵みと真理」を表したと言う。律法、即ち、神の言葉は本来人間を奴隷から解放する指針、不平等な扱いを平等に変える方針だったにもかかわらず、人は囚われ、他者を不平等に扱うことを正当化するものとしてしまった。イエスは立ち返り、人を解放し、平等に扱う指針として神の言葉に従ったのだ。そのイエスを「恵みと真理に満ちている」とヨハネは表現したのだ。まさしく、「苦い水を甘いぶどう酒」にイエスは変えたのだ。教会はそのイエスを先頭について行こう。 |
2013年1月27日(日) ルカによる福音書4章14〜21節
今日の箇所は、イエスが何者であるかを端的に表している。それをM・L・キング牧師は教会建設のガイドラインだと説教で語っているが、洗礼を受けたキリスト者にとっても人生のガイドラインと言ってもいいだろう。何故なら、両者ともイエスに従って生きることを選択したから。 |
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