ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

―もとゐ―


 2013年1月1日(木)
 神の母聖マリア

 ルカによる福音書2章16節-21節

2,16 〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2,17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2,18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2,19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2,20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
2,21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 聖書では神と人との関係を「契約」と表す。つまり、神は裁く恐ろしい方なので、地獄に落ちたくないなら、理解不可能なことでも信じなさい、と言うのではなく、神が指し示す人生の指針を納得して受け入れ、それに従って歩むことを約束すること。イエスはその道を歩まれた先駆者だから、敬い従って行くのがキリスト者となる。

 それでは、神がそしてイエスが十字架刑死までもして目指した人生とは何か。「神の前では人は誰もが平等であり、自由で独自な存在である」ことの実現がそれだ。母マリアが思いめぐらしたことは我が子がその道を歩む者になるように、であっただろう。

 カトリック教会の使命も同じ。安部首相ら自民党がもくろむ戦争の出来る国、原発維持、格差拡大は神とイエスの目指すものとは真逆の道、新年にあたり教会は十字架を担ぐ覚悟を新たにしたい。 
今週の一句
三が日の 朝食新聞つき モーニングかな

―もとゐ―


 2013年1月6日(日)
 主の公現

 マタイによる福音書2章1節-12節

2,1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2,2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2,3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2,4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2,5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2,6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2,7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2,8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2,9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2,10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2,11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2,12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 旧約聖書では王政への批判がある(サムエル上8章)。王に従うのではなく、越えた「神」に従うよう勧められている。この世のものの絶対化により、人間は奴隷となる。例えば、独裁者、科学技術、経済。

 三人の博士が従ったもの、ヘロデ王や官僚ではなく星、つまり、神の声であった。イエスの父も宗教や道徳ではなく神の声であった。教会はまず神の声を聴くことから始まよう。
今週の一句
霜の原 光眩しき 通い道

―もとゐ―


 2013年1月13日(
 主の洗礼

 ルカによる福音書3章15〜16節、21〜22節


3,15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3,16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3,21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
3,22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 洗礼者ヨハネのもとへ洗礼を受けにイエスが行った。齢30の頃と言われている。人生の盛りに、洗礼を受けるイエスの心境は何だったのか。ローマ帝国の支配下、飢え病む人の多い貧しいガリラヤ地方での生活でイエスは何を感じ、悩んでいたのか。小説家の想像力を駆り立てることだろう。重荷を負った人々を前に、何とかして軽くしてあげたい、との思いがあったのではないか。既存の宗教は何故、人々にそんな重荷を負わせているのか、その神は本物なのかと苦悶していたかもしれない。それで、ヨハネのもとへ教えを乞いに行ったのだろう。

 私たちも、混迷する現代世界に光を求めてイエスのもとへ行こう。古い殻を脱ごう。それが「洗礼」なのだ。 
今週の一句
初雪や 大都会東京 七転八倒

―もとゐ―


 2013年1月20日(日)
 年間第2主日

 ヨハネによる福音書2章1節-11節

2,1 〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2,2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2,3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2,4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2,5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2,6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2,7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2,8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2,9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2,10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2,11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 イエスが水をぶどう酒に変えた奇跡物語、それは、当時絶大な人気を誇っていたディオニソス神、酒の神として3本の瓶の水をぶどう酒に変えたその神よりもイエスは力ある方だと示す物語。同時に、水は古い生き方の象徴で、ぶどう酒は新しい生き方の象徴。従って、イエスは人々に従来の在り方、考え方ではなく、新しい見方、考え方、生き方を齎した方だと教えている。それを、ヨハネはイエスがモーセの律法に対し「恵みと真理」を表したと言う。律法、即ち、神の言葉は本来人間を奴隷から解放する指針、不平等な扱いを平等に変える方針だったにもかかわらず、人は囚われ、他者を不平等に扱うことを正当化するものとしてしまった。イエスは立ち返り、人を解放し、平等に扱う指針として神の言葉に従ったのだ。そのイエスを「恵みと真理に満ちている」とヨハネは表現したのだ。まさしく、「苦い水を甘いぶどう酒」にイエスは変えたのだ。教会はそのイエスを先頭について行こう。
 
今週の一句
大寒や 闇引き裂きて 光現る

―もとゐ―


 2013年1月27日(
 年間第三主日

 ルカによる福音書4章14〜21節


4,14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。
4,15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
4,16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4,17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4,18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4,19 主の恵みの年を告げるためである。」
4,20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4,21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 今日の箇所は、イエスが何者であるかを端的に表している。それをM・L・キング牧師は教会建設のガイドラインだと説教で語っているが、洗礼を受けたキリスト者にとっても人生のガイドラインと言ってもいいだろう。何故なら、両者ともイエスに従って生きることを選択したから。

 人は自分が生きて行くことだけでも精一杯だ。それでも、他者の不幸を目にしたとき、心痛む。そして、他者が幸いになるよう何か手助けしたいと思う。イエスはそこに自分の生きる道を選んだのではないか。周りにいる苦難を負った人々に無関心ではいられなかった。求められたら、手を差し出すにはいられなかったのではないか。そして、聖書の説く人間観、即ち、「神の前では、人は誰もが自由、平等、独自性の存在」を実現することが、人々の涙を拭うことと悟ったのではないか。その理想に自分を投げ出したのがイエスではないか。

 日々の暮らしに追われて、他者へと関心の行かない私たちは、自分と他者をそのように追い込んでいる世界を、否とし互いに関われるゆとりのある世界に変えて行くこともイエスの後をついて行くことではないか。  



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