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2012年12月2日(日) 待降節第1主日 ルカによる福音書21章25節-28節、34節-36節
終末論の発生は、圧政に喘ぎ苦しむ状況からであった。圧政下にあって、信仰、つまり、ユダヤ教的生き方を守り、殉教した人たちを神がどう処遇されるかの問いの答えとして生まれた。キリスト教会も初期には迫害されたので、同じように終末論、神が裁きに来られ、新しい天と地に作り変えられること、即ち、キリストの再臨、世の終わりを願った。 しかし、現代、特に日本のような目立った圧政のないところでは、クリスチャンは誰も終末を願わない。願うのは現状維持だけだ。では、今日の聖書をどのように読んだらいいのか。2000年前の教会の話しとしてだけ読むこと。やはり、イエスに戻ろう。イエスは目の前で苦しむ人々に手を差し伸べ。無関心な人々には回心を叫んだのであった。 だから、「目を覚ましなさい。」他者の苦しみを知り、その原因に気づくことをイエスは私たちに呼びかけているのではないか。 |
2012年12月9日(日) 待降節第2主日 ルカによる福音書3章1節-6節
師走の選挙戦、まさに、先生になるため走り回っている。そこから聞こえる声は空しい。民主党のように、選挙前と後ではまるきり違ったために、どの声にも言うだけか、と思うのは寂しい。それでも、それらから日本の将来を任せられる本物の声を聞き分けなければならない。 2000年前のユダヤでは、やはり、苦難にある人々は解放を求めて本物の声を捜した。大祭司たちはローマの圧政に喘ぐ民を更なる重税で苦しめた。ファリサイ派の人たちは厳格な律法遵守を強いて民を分断した。エッセネ派は荒野に出て行って修道生活をした。置き去りにされた民は飼う者のいない羊のように彷徨っていた。民はどう生きたらよいのか、優れた指導者を捜した。それは、神殿ではなく、シナゴーグではなく、修道院ではなく、荒野の修行者にその声を聴いた。 腹も膨れ暖かい衣に身を包んでいる恵まれた者からは叫び声は聞かれない。荒野の暗闇で魑魅魍魎と闘っている人の叫び声は確かだ。苦難の人々と共に闘っている人を立候補者から探そう。 |
2012年12月16日(日) 待降節第3主日 ルカによる福音書3章10節-18節
旧約聖書では人と神との関係を「契約」と言う。神を人の困り事から救う者として祈り、捧げ物する対象ではない。人は神の示された生きる方向に従うことを約束する。神とはこの世を超えた絶対者だ。つまり、人はこの世の価値を求めないと言うこと。洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」はこの世的生き方から、神の示す生き方へ向きを変えよう、との呼びかけなのだ。人は問う、「どうすればいいのですか。」ヨハネの答えは、弱者への配慮、共生への道となっている。それは、旧約聖書が常に語っている「正義と恵みの業」(エゼキエル書18章、他)のこと。従って、所謂、「信仰」とは「正義と恵みの業」を生きることなのだ。 |
2012年12月23日(日) 待降節第4主日 ルカによる福音書1章39節-45節
人生はいつでも問題が起きる。若くても、年老いてもそれぞれに悩み苦しみがある。しかも、人生を私のものと考えるのではなく、神からの呼びかけに応えるものでもあると考えるなら、苦しみは増すばかり。神に応えようとするなら、一人では更に困難となる。同志が必要だ。教会はまさにそのために「呼び集められた」のだ。神の前でエリサべトとマリアのように、お互いの労苦を共に担う者になること、それが、教会となる。 |
2012年12月24日(日) 主の降誕(夜半) ルカによる福音書2章1節-14節
今回の総選挙では自民党が大勝した。自民党は軍事・経済優先で、経済格差の拡大を進めているにもかかわらず、有権者は命より経済を選んだことになった。古代より人間を虜にして離さないのは「富」と言われている。旧約聖書を残した人々の闘いはバアル(所有)とだった。世界史では優れた軍事力を持った国が周辺の国々を征服して行ったのも「富」の獲得のためであった。日本の明治以来の「富国強兵」も同じこと。その結果、何と多くの命が奪われたことだろうか。それでも、常に「富」を求めるその誘惑は何と強いことだろう。 クリスマスのメッセージはその「富」への執着への「否」ではないか。クリスマス物語はメルヘンで牧歌的な詩になっていて、読む者を甘美な夢の世界へ誘う。けれど、そこには、力ある者が自己の利益のために有無を言わさず、弱い者を死に追いやる冷酷な世界が描かれている。まるで、原発のためには地域住民、そして、労働者の生命財産を根こそぎ奪い取られたように。弱い者は逆らえない、どんなに犠牲を強いられても。そんな世界をローマ皇帝と帝国は支配している。他方、権力に翻弄され居場所も与えられない庶民と労働者が繋がる世界、持たない者同士を寄り添わせ生かしあう乳飲み子の世界。天使たちは、その無力で貧しい者たちの象徴である乳飲み子を救い主と呼び、彼らに向かって、神はあなたがたと共にいると歌った。それは、「富」より「命」のために生きることが神の喜びであると言うことなのではないか。 世間のクリスマスはまさに「富」追求のお祭り、教会では「富」ではなく「命」そのための「与える」ことを祝うクリスマスにしよう。 |
2012年12月30日(日) 聖家族 ルカによる福音書2章41節-52節
ユダヤ教で言う、バル・ミツバ、即ち、成人式を聖人伝に作り直したところ。男の子は13歳になるまで、聖書全巻の暗記が課せられ、成人式には、律法に関する口頭試験、どう解釈するのかを成人式にした。神との関係は「信じる」ことではなく、律法つまり神の言葉を、理解し解釈し行うことがそこから読み取られる。 キリスト者のも同じ。聖書を読み、理解し、現代に適用し行うことが求められる。世界はますます強者のものになりつつあるから。 |
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