ももちゃんの一分間説教



今週の一句
見上げれば 夕闇照らす 十三夜

―もとゐ―


 2012年11月4日(日)
 年間第31主日

 マルコによる福音書12章28節b-34節

12,28 〔そのとき、〕一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12,29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12,30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12,31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12,32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12,33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12,34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 現代世界が大事にする価値観は経済的利益を得ることだ。原子力発電所を一つの例として挙げられる。人類と地球への収束不可能な大参事を齎したにもかかわらず、原発を手放せないことに見られる。サラリーマンにあっても過労死が示すように命より収入を優先する。つまり、現代の私たちは金、マモンという偶像神を拝み仕えているのだ。その私たちに向かってイエスは真の神、即ち、人の命、人権を優先する神に全力で仕えなさい、と言う。そして、自ら貧しく、命まで捨てて従われたのであった。「信仰」とはこのイエスに倣いついて行くことなのだ。
 
今週の一句
窓の外 つるべ落としの 秋の夜

―もとゐ―


 2012年11月11日(日)
 年間第32主日

 マルコによる福音書12章38節-44節

12,38 〔そのとき、〕イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12,39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12,40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
12,41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12,42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12,43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12,44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 ユダヤ教の人々は朝夕シェマーと呼ばれる祈りを唱えていた。それが、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、主なる神を愛しなさい」だ。キリスト教の人たちは何かにつけ、「主の祈り」を唱えている。と言うのは、唱和することによって、信者としての生きる基本姿勢を確認するから。即ち、人は自分の欲求に生きるのではなく、神の呼びかけに応えることを生きるとするのだ。

 にもかかわらず、実際は、大金持ちやヤコブ・ヨハネの兄弟のように、あるいは、「永遠の命」を求めた金持ちのように、富むがゆえに自己の欲望に囚われている。言うだけで行わないのだ。だから、金持ちよりラクダが針の穴を通るのは難しい。に較べ、貧しいやもめの女性は自分のすべてを懸けて神に応えた。イエスは私たちに呼びかける、あなたの姿勢は、と。
今週の一句
甘き柿 口に拡がる 時の早さ

―もとゐ―


 2012年11月18日(日)
 年間第33主日

 マルコによる福音書13章24節-32節

13,24 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13,25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13,26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13,27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
13,28 いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13,29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13,30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13,31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
13,32 その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

 イエスの周りには病み、疲れ、重荷を負っている人が数知れずいた。イエスは願った、これらの人々が大切にされるように。しかし、ローマ帝国やユダヤ教指導者と言う圧倒的力が立ちふさがり、イエスは無力を感じていただろう。祈らずにはおれなかった。神の歴史への介入を。同時に、自分の出来る限りのことをした。

 あの持ち金を全部捧げた寡のように。神の働きを願うことは、「主の祈り」と同じように自分の使命を自覚すること。恵まれた立場の人はまず周りの状況を見よう。乞食の目の見えないバルティマイに出会ったイエスのように、自分の使命が与えられるだろう。 
今週の一句
銀杏黄葉 一足早き 電飾かな

―もとゐ―


 2012年11月25日(日)
 王であるキリスト

 ヨハネによる福音書18章33節b-37節

18,33 〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18,34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18,35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18,36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18,37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 福音書の受難記事は史的な事実ではない。例えば、イエスが捕えられて夜ユダヤ人が裁判をしたとされているが、ユダヤ教では日没後に裁判を決して行わない、と言うことからもわかるように、創作物語である。つまり、キリスト教会がイエスをキリスト、救い主とする神学から書かれたのだ。今日の箇所では、イエスを「ユダヤ人の王」とのピラトの問いから、イエスの「王」とは何かを教えようとしている。旧約聖書では一貫として「王」には批判的だ。サムエル記上8章には神に代わって王政を取ろうとする民にその弊害を説いている。結局、王国になり国の滅亡、民の離散があった。今また、イエスの目にする国は荒れ果て、特権階級の腐敗堕落、民の辛酸が顕著になっていた。イエスは言う、王とは人々に仕えるものだ、と。そのイエスをこの世の「王」たち、上から下まで人の上に立ちたい者らから殺害されたのだった。 


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