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2012年11月4日(日) 年間第31主日 マルコによる福音書12章28節b-34節
現代世界が大事にする価値観は経済的利益を得ることだ。原子力発電所を一つの例として挙げられる。人類と地球への収束不可能な大参事を齎したにもかかわらず、原発を手放せないことに見られる。サラリーマンにあっても過労死が示すように命より収入を優先する。つまり、現代の私たちは金、マモンという偶像神を拝み仕えているのだ。その私たちに向かってイエスは真の神、即ち、人の命、人権を優先する神に全力で仕えなさい、と言う。そして、自ら貧しく、命まで捨てて従われたのであった。「信仰」とはこのイエスに倣いついて行くことなのだ。 |
2012年11月11日(日) 年間第32主日 マルコによる福音書12章38節-44節
ユダヤ教の人々は朝夕シェマーと呼ばれる祈りを唱えていた。それが、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、主なる神を愛しなさい」だ。キリスト教の人たちは何かにつけ、「主の祈り」を唱えている。と言うのは、唱和することによって、信者としての生きる基本姿勢を確認するから。即ち、人は自分の欲求に生きるのではなく、神の呼びかけに応えることを生きるとするのだ。 にもかかわらず、実際は、大金持ちやヤコブ・ヨハネの兄弟のように、あるいは、「永遠の命」を求めた金持ちのように、富むがゆえに自己の欲望に囚われている。言うだけで行わないのだ。だから、金持ちよりラクダが針の穴を通るのは難しい。に較べ、貧しいやもめの女性は自分のすべてを懸けて神に応えた。イエスは私たちに呼びかける、あなたの姿勢は、と。 |
2012年11月18日(日) 年間第33主日 マルコによる福音書13章24節-32節
イエスの周りには病み、疲れ、重荷を負っている人が数知れずいた。イエスは願った、これらの人々が大切にされるように。しかし、ローマ帝国やユダヤ教指導者と言う圧倒的力が立ちふさがり、イエスは無力を感じていただろう。祈らずにはおれなかった。神の歴史への介入を。同時に、自分の出来る限りのことをした。 あの持ち金を全部捧げた寡のように。神の働きを願うことは、「主の祈り」と同じように自分の使命を自覚すること。恵まれた立場の人はまず周りの状況を見よう。乞食の目の見えないバルティマイに出会ったイエスのように、自分の使命が与えられるだろう。 |
2012年11月25日(日) 王であるキリスト ヨハネによる福音書18章33節b-37節
福音書の受難記事は史的な事実ではない。例えば、イエスが捕えられて夜ユダヤ人が裁判をしたとされているが、ユダヤ教では日没後に裁判を決して行わない、と言うことからもわかるように、創作物語である。つまり、キリスト教会がイエスをキリスト、救い主とする神学から書かれたのだ。今日の箇所では、イエスを「ユダヤ人の王」とのピラトの問いから、イエスの「王」とは何かを教えようとしている。旧約聖書では一貫として「王」には批判的だ。サムエル記上8章には神に代わって王政を取ろうとする民にその弊害を説いている。結局、王国になり国の滅亡、民の離散があった。今また、イエスの目にする国は荒れ果て、特権階級の腐敗堕落、民の辛酸が顕著になっていた。イエスは言う、王とは人々に仕えるものだ、と。そのイエスをこの世の「王」たち、上から下まで人の上に立ちたい者らから殺害されたのだった。 |
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