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2012年10月7日(日) 年間第27主日 マルコによる福音書10章2節-16節
生きるとは、人生からのその都度の問いかけに答えて行くこと、と言われる。聖書の民はその答えを人の思いを越えたところ、いわゆる、神と呼ばれるものから見いだす。律法は神の言葉として、生活全般の指針とされ、それに従うと約束したのが聖書の民である。 結婚についても、神の創造の働きから考察する。生涯を共にする伴侶は神が結び合わせたのだと。創世記2章は紀元前1000年頃、ソロモン王の時代に書かれたと言われる。現在から3000年も前だけれども、夫婦間、いや、人間間には現代と同様の問題があっただろう。ゴタゴタの続く夫婦間にあってでも、そこに、神の創造を見いだすところに、聖書の民の思いは凄いとしか言いようがない。従って、イエスは聖書の教えに立ち返り、離婚を考えるには、相手を神が与えてくださった者、と言うところからまず出発しよう、とヒントを言われたのではないだろうか。答えはイエスが与えるのではなく、自分で応えなければならない。 |
2012年10月14日(日) 年間第28主日 マルコによる福音書10章17節-30節
聖書の民は、人生を荒野の旅に例えた。そこで唯一頼れるものは、人間、この世を越えたもの、我が牧者と言われた方であった。しかし、民はこの世のものに縋ってしまった、バアル(豊穣の神)、王、富、力、など。その結果、誰も約束の地には到着できなかった。現代の私たちも、原発、軍事力、経済力に頼っていては、次世代に残すものは「負の遺産」だけであろう。 この世の価値、即ち、バアル神に膝を屈めることから、イエスが目指した命を育て守ることを第一とする生き方へ方向転換しよう。 |
2012年10月21日(日) 年間第29主日 マルコによる福音書10章35節-45節
キリスト教信仰は、イエスの道を歩むこと。マルコ福音書が描くように、病む人、貧しい人、疎外された人が尊重されるための意識改革と結果としての受難の道をイエスは歩いた。それは、イエスの発明ではなく、旧約聖書以来の、人のあるべき姿(例えば、「十戒」に表されている)に答えたのでした。即ち、神を畏れ、人を愛することでした。「宗教」と言うと、苦しい時の神頼みのように、人が神にあれこれしてくれと頼み、神々がそれに応えてくれる、と思われている。 しかし、イエスの道は、人が神に願うのではなく、神の願いに応答することだ。イエスが行く先々で出会った、病人、飢えた人々の願いに応えられたように。先週の金持ちの人の話では、彼に要求されたのは、貧しい人に出会ったとき答えられますか、と言うことではないだろうか。 イエスの道を歩くのは決してご褒美を頂くためではない、むしろ、人へ捧げ、奉仕することなのだ。 |
2012年10月28日(日) 年間第30主日 マルコによる福音書10章46節-52節
イエスの道は仕えること、言い換えれば、人を幸いに導くこと。道端でうずくまっていた盲人バルティマイを喜び躍らせたイエスの「安心しなさい」は別の訳では「勇気を出せ」との言葉、それは、バルティマイの塞がっていた人生に光明を与えた。倒れた人々が立ち上がられるような関わりをすることが、イエスの「仕える」の意味ではなかろうか。 |
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