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2012年9月2日(日) 年間第22主日 マルコによる福音書7章1節-8節、14節-15節、21節-23節
信仰の名による行為は人を裁くこととなる。今日のように、食事の前には手を洗うこと。洗わないで食べる者を信仰に反すると裁いている。しかし、些末なことには口うるさいほど遵守を主張するが、本質的なことにはほほ被りするか、意図的誤読をする、コルバンのように。イエスはそれを見抜かれた。律法遵守とうるさいが、一番大事な、隣人を自分と同じように愛せよをお前たちは守っているのかと。飢えた人、病気の人、牢獄にいる人とお前たちはどのように関わっているのかと。 現代の教会でも同じだ。ミサ、祈りとうるさいが、隣人になっているのか。門を叩く人に開けているのだろうか。振り返りましょう。 |
2012年9月16日(日) 年間第24主日 マルコによる福音書8章27節-35節
イエスは私たちの目を開けること、耳を開くこと、こころを鋭敏にするよう呼びかけている。旧約の預言者は時の徴を読み取っていた、故に、神に立ち返るよう呼びかけた。即ち、イエスは私たちに時の徴を見分けようにと言われるのだ。 今の社会の閉塞感は強いリーダーを期待し、弱肉強食、自己責任を強いる社会を求めるようになってきている。そのため、社会福祉が切り捨てられ、弱者は一層弱くさせられている。古代イスラエル王国の滅亡の原因を預言者たちはそこに見た、だから、彼らは告発した。イエスはローマ帝国の支配下にあったユダヤ教に一石を投じた。生贄より憐みをと。イエスは時代を読み取ったからこそ、生きるべき姿を示された。 私たちは時代の徴を見分け、人が大切にされるよう、声を上げ、自分と社会を変えて行くことが、イエスをメシアと告白することではないか。 |
2012年9月23日(日) 年間第25主日 マルコによる福音書9章30節-37節
信仰とは目を開き、耳を開くこと、悟ること。 「仕える人」「奴隷」「子どもを受け入れる」者になれ、とイエスは彼に従う人たちに呼びかける。これも又、目を開くことだ。なぜなら、「偉い人」「仕えられる人」、即ち、人の上に立ちたいと言う願望はだれにもある。家庭でも学級でも、人が集りグループになればどこでも。そのためには他者を競争相手、敵、奴隷として見るのが、この世である。世の権力者を見ればそれが解る。例えば、日本のリーダーは原発、オスプレイを押し付け、人の命を顧みないことからも明らかだ。と言うことは、イエスの勧めは、この世の視点ではなく、人間・宇宙を越えた「神」と呼ばれる視点を持てという事だ。見失った一匹の羊や放蕩息子の例 えのような「羊飼い」「父」やの視点だ。「神」の前では誰もが尊い存在である、と言うのが旧約聖書の思想。イエスはそれを声だけではなく、追求し実現しようとした。この世では無価値と言われるものであっても、「尊い」のだ、そのためには受け入れ、仕えることだ、がイエスの答えだ。 イエスに従うとは、その呼びかけに応えて行くこと、だから、この世では十字架を担ぐことなのだ。 |
2012年9月30日(日) 年間第26主日 マルコによる福音書9章38節-43節、45節、47節-48節
病人、貧しい者たちの痛み、辛さ、悲しみと向き合い、平等に扱われるよう骨身を惜しまなかったイエスを、私たちは先人とし敬い、後について行こうとしている。そのため、イエスの言葉は、人生のともしび、光となる。「小さい者を躓かせるな」は小さい者が道を誤らないように正しく歩け、と言うこと。イエスの配慮を感謝しつつ、イエスを見失わないよう、歩き続けよう。 |
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