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2012年8月5日(日) 年間第18主日 ヨハネによる福音書6章24節-35節
福音書にはイエスの伝承が集められている。伝承は思い出から作られる。ガリラヤの貧しい人々は思い出す。イエスが病を癒し、パンを分け与え、洗礼者ヨハネと同じく権力者から十字架で処刑されたことを。 福音記者ヨハネはそこに神の人間への愛を見た。イエスと同じく生きることが神の望みであり、愛であることを。イエスは貧しい者たちのために日毎のパンを願わずにはいられなかった。しかし、人の人生はそれだけではない。 永遠の命に至ること、即ち、神の御心の実現が目的であることをイエスは示された。従って、イエスは、貧しい者たちが公平に生きられるようと共にいたのだ。 ミサでイエスを食することは、私たちがその人生をイエス、神の御心の実現に捧げることを新たにすることを意味する。8月、平和の使徒に近づこう。 |
2012年8月12日(日) 年間第19主日 ヨハネによる福音書6章41節-51節
福音書にはもちろん、イエスが何者であるか、つまり、何故、イエスがキリスト教徒の信じる「救い主」であるかを描いている。というのは、イエスが救い主であることを受け入れない人々がいたから。それは、現代にも同じ。従って、イエスが何者かをわかるように伝えることは教会の大事な勤めであることは2000年前と変わらない。 要点は、イエスはいわゆる「神」ではないということ。ここで言う「神」は人間に都合の良いご利益を与えるもの、聖書では偶像と呼ぶものではない。古今東西、「宗教」は御利益信仰と呼ばれ、「家内安全、無病息災」を与えるものと信じられている。ユダヤ教、イエスへの信仰は祈りや捧げものをすれば、「救い」「お恵み」をいただく、というのではない。 福音書にイエスに躓いたとあるのは、それを指す。人々はイエスにご利益を願ったが、イエスはそれに応えなかっただけではなく、人々に仕えること、受け入れること、捨てることを率先したのだ。だから、人々はなんだ、唯のヨセフの子ではないか、とイエスを拒否した。 イエスは人々にパンではなく、言葉を与えた。即ち、生きる指針、方向を示された。その意味で、イエスは私たちを「死」「捕らわれ」から救い出され、豊かな「命」へ導かれる方なのだ。 |
2012年8月26日(日) 年間第21主日 ヨハネによる福音書6章60節-69節
水戸のご老公の印は葵の印籠、それを持たなければ、ただの越後のちりめん問屋に過ぎない。では、私たちキリスト者の印は?洗礼を受けたこと、あるいは、キリストの体としてのパンをいただくことか。ペテロがイエスを「永遠の命のことばを持っている」方と言われたのは何故か。パンを増やしたから、湖を歩いて渡ったから、病人を癒したからではない、十字架で刑死されたからではないか。ここに驚くべき信仰がある。安心立命を求める信仰ではなく、イエスの生に真の幸い、真の意味を求める信仰がある。 私たちキリスト者の印、それは、イエスに人生の目的を見いだし、求めて行くことではないか。 |
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