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2012年7月1日(日) 年間第13主日 マルコによる福音書5章21節-43節
イエスの周りには、貧しく病む人々が多くいた。彼・彼女たちと接したイエスは何らかの関わりをした。そのイエスから何ほどかの力を得て立ち上がった人々が言い広めた。それを、福音記者が集め纏めたのが本日の奇跡物語となった。 12年もの間、長血を患った女性の奇跡的治癒の話は、この女性の行動に驚かされる。彼女の治りたいという思いは、必死であった。けれど、表には出せられなかった。ヤイロとは対照的だ。世の中には、その苦難を表に出せられる人とそうでない人とがいる。前者は恵まれ、後者は、貧しく弱く、無視される不遇な人だ。女性は治るためには力を絞り出すしかない。周囲から何と思われようが。ヤイロの「出来れば」の姿勢とは違う。恵まれた者、私たちは、それほど必死に救いを求めない。適わなくても、十分幸いだから。 彼女の切なる願いと行動は、彼女を癒した。イエスと言う希望は、私たちを引きこもりから外へ出し前に向かわせる、「力が出て行った」のだ。困難にある人を希望に向かわせられる人になりたいものだ。 |
2012年7月8日(日) 年間第14主日 マルコによる福音書6章1節-6節
ユダヤ教のシナゴーグ、集会所では聖書朗読とその解釈が行われている。解釈ではその議論が喧々諤々議論される言う。紀元70年にローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊されてから、神殿での犠牲獣献納と言う祭儀がなくなり、ユダヤ教は律法、すなわち、神の言葉の解釈が中心になったと言われる。なぜなら、どう生きるか、生活全般にわたる在り方が課題であるので、絶えず、神の言葉の現代化が必要になるから。キリスト教会が古代の信条をそのまま墨守するのとは異なる。 イエスが故郷で受け入れられなかったというのは、イエスの律法解釈を受け入れられなかったことだろう。イエスは病人を癒し、貧しい人、「罪人」と食卓を共にした、その律法解釈のこと。 現代の教会も礼拝、信心行中心であるから、小さい人々との連帯を受け入れられないでいる。ナザレの出来事は、今の教会であろう。イエスを受け入れないのだ。 |
2012年7月15日(日) 年間第15主日 マルコによる福音書6章7節-13節
イエスは弟子たちを派遣する。ガリラヤ地方にいる名もなき民衆のもとへ。彼らは貧しさ故に、病み飢え彷徨える人々だ。ユダヤ教の一派からは「罪人」と呼ばれ、不平等な扱いを受けている。イエスは彼らが平等に扱われること、即ち、神の言葉に従うことであると、口だけではなく身を以て示された。それを弟子たちの使命にしたのであった。キリスト教の原点はここにある。教理の信仰ではなく、イエスの生き方について行くこと、不平等、不正義がなくなるために生きることがキリスト教なのだ。消費税問題、原発問題。等もその視点から見なければならない。 |
2012年7月22日(日) 年間第16主日 マルコによる福音書6章30節-34節
世の中は利益追求に引っ張られる。原発再稼働一つとっても、命より利益がその理由であり、消費税も大企業、金持ちの利益のためだ。国民はそのため過労死させられ、子どもは生き残るため、いじめを繰り返す。利益追求から何もいいことは生まれない。 イエスと弟子は、病気癒しのため食事を取る暇もなかった。イエスは弟子たちに「休もう」と呼びかける。病人たちからすれば一刻も早く癒されたいだろう。休んでほしくはないとの気持ちをイエスは痛いほど知っている。しかし、敢えて、「休む」のである。利益ではなく、命を大事にするからだ。 教会のミサもそのためにある。ご利益ではなく、命を豊かにするための安息日としてミサを祝うのだ。 |
2012年7月29日(日) 年間第17主日 ヨハネによる福音書6章1節-15節
イエスはガリラヤの困窮する人々の願いに応えられた。病人には癒しを、空腹の者にはパンを。しかし、イエスの働きはそればかりではない。なぜなら、それだけであるなら十字架刑と言う政治犯としての処刑には合わなかった。マザーテレサがその例となる。 イエスは慈善事業家ではない。むしろ、慈善事業しなくても良い、人間、人間社会を目指した。それは、為政者にとって反政府とみなされる。 今また、反原発・脱原発もそう見なされる。けれど、命を粗末にされたガリラヤの人々との交わりによってイエスが働いたように、教会は立ち上がるべきではないか。 |
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