ももちゃんの一分間説教



今週の一句
クチナシや 雨空払う 白き花

―もとゐ―


 2012年7月1日(日)
 年間第13主日

 マルコによる福音書5章21節-43節

5,21 〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5,22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5,23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5,24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5,25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5,26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5,27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5,28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5,29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5,30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5,31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5,32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5,33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5,34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5,35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5,36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5,37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5,38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5,39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5,40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5,41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5,42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5,43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 イエスの周りには、貧しく病む人々が多くいた。彼・彼女たちと接したイエスは何らかの関わりをした。そのイエスから何ほどかの力を得て立ち上がった人々が言い広めた。それを、福音記者が集め纏めたのが本日の奇跡物語となった。

 12年もの間、長血を患った女性の奇跡的治癒の話は、この女性の行動に驚かされる。彼女の治りたいという思いは、必死であった。けれど、表には出せられなかった。ヤイロとは対照的だ。世の中には、その苦難を表に出せられる人とそうでない人とがいる。前者は恵まれ、後者は、貧しく弱く、無視される不遇な人だ。女性は治るためには力を絞り出すしかない。周囲から何と思われようが。ヤイロの「出来れば」の姿勢とは違う。恵まれた者、私たちは、それほど必死に救いを求めない。適わなくても、十分幸いだから。

 彼女の切なる願いと行動は、彼女を癒した。イエスと言う希望は、私たちを引きこもりから外へ出し前に向かわせる、「力が出て行った」のだ。困難にある人を希望に向かわせられる人になりたいものだ。
 
今週の一句
暗雲を 払い除けたり アガパンサス

―もとゐ―


 2012年7月8日(日)
 年間第14主日

 マルコによる福音書6章1節-6節

6,1 〔そのとき、〕イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6,2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6,3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6,4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6,5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6,6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
〔それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。〕

 ユダヤ教のシナゴーグ、集会所では聖書朗読とその解釈が行われている。解釈ではその議論が喧々諤々議論される言う。紀元70年にローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊されてから、神殿での犠牲獣献納と言う祭儀がなくなり、ユダヤ教は律法、すなわち、神の言葉の解釈が中心になったと言われる。なぜなら、どう生きるか、生活全般にわたる在り方が課題であるので、絶えず、神の言葉の現代化が必要になるから。キリスト教会が古代の信条をそのまま墨守するのとは異なる。

 イエスが故郷で受け入れられなかったというのは、イエスの律法解釈を受け入れられなかったことだろう。イエスは病人を癒し、貧しい人、「罪人」と食卓を共にした、その律法解釈のこと。

 現代の教会も礼拝、信心行中心であるから、小さい人々との連帯を受け入れられないでいる。ナザレの出来事は、今の教会であろう。イエスを受け入れないのだ。
今週の一句
野宿者の 願い届けり 七夕夜

―もとゐ―


 2012年7月15日(日)
 年間第15主日

 マルコによる福音書6章7節-13節

6,7 〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6,8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6,9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6,10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6,11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6,12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6,13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 イエスは弟子たちを派遣する。ガリラヤ地方にいる名もなき民衆のもとへ。彼らは貧しさ故に、病み飢え彷徨える人々だ。ユダヤ教の一派からは「罪人」と呼ばれ、不平等な扱いを受けている。イエスは彼らが平等に扱われること、即ち、神の言葉に従うことであると、口だけではなく身を以て示された。それを弟子たちの使命にしたのであった。キリスト教の原点はここにある。教理の信仰ではなく、イエスの生き方について行くこと、不平等、不正義がなくなるために生きることがキリスト教なのだ。消費税問題、原発問題。等もその視点から見なければならない。
今週の一句
蝉の声 一足早く 届けられ

―もとゐ―


 2012年7月22日(日)
 年間第16主日

 マルコによる福音書6章30節-34節

6,30 〔そのとき、〕使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6,31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6,32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6,33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6,34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 世の中は利益追求に引っ張られる。原発再稼働一つとっても、命より利益がその理由であり、消費税も大企業、金持ちの利益のためだ。国民はそのため過労死させられ、子どもは生き残るため、いじめを繰り返す。利益追求から何もいいことは生まれない。

 イエスと弟子は、病気癒しのため食事を取る暇もなかった。イエスは弟子たちに「休もう」と呼びかける。病人たちからすれば一刻も早く癒されたいだろう。休んでほしくはないとの気持ちをイエスは痛いほど知っている。しかし、敢えて、「休む」のである。利益ではなく、命を大事にするからだ。

 教会のミサもそのためにある。ご利益ではなく、命を豊かにするための安息日としてミサを祝うのだ。  
今週の一句
蝉時雨 昇る水銀柱 拍車駆け

―もとゐ―


 2012年7月29日(日)
 年間第17主日

 ヨハネによる福音書6章1節-15節

6,1 〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6,2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6,3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6,4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6,5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6,6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6,7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6,8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6,9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6,10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6,11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6,12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6,13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6,14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6,15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 イエスはガリラヤの困窮する人々の願いに応えられた。病人には癒しを、空腹の者にはパンを。しかし、イエスの働きはそればかりではない。なぜなら、それだけであるなら十字架刑と言う政治犯としての処刑には合わなかった。マザーテレサがその例となる。

 イエスは慈善事業家ではない。むしろ、慈善事業しなくても良い、人間、人間社会を目指した。それは、為政者にとって反政府とみなされる。

 今また、反原発・脱原発もそう見なされる。けれど、命を粗末にされたガリラヤの人々との交わりによってイエスが働いたように、教会は立ち上がるべきではないか。  


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