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2012年6月3日(日) 三位一体の主日 マタイによる福音書28章16節-20節
キリスト者は各々使命をいただいている。私たちは幸い、如何に生きるべきかの問いに一つの答えを与えられているから。その使命とはイエスによる宣教への派遣だ。その声に従った人は古今東西、数えきれない。2000年間、海を渡り、密林を分け入った数々の群れ。宣教の様も、信者を増やすことから、貧しい人々への奉仕、正義と平和への活動と多岐に亘っている。けれど、形は違え教会建設や社会活動は、同じ目標を持っている。それは、イエスが示された生きるに値する「価値」を広め、実現すること。イエスは「人は平等で自由である」との神の意志に生きようとされた。シリアや日本の原発問題からも明らかのように、人は不平等に扱われ、反抗すれば命を人権を奪わる。資本の奴隷と化している。それが、現在の世界だ。その世界にイエスは人が正当に公平に扱われるよう生きて、殺された。そこに生きるべき「価値」を見出したから、人はイエスの宣教命令に応えたのだ。 私たちも出かけよう。「誰もが尊重される」ために。 |
2012年6月10日(日) キリストの聖体 マルコによる福音書14章12節-16節、22節-26節
イエス・キリストの死を記念する聖餐式。その死によって私たちは生きることをゆるされた、と考えるのがキリストの「贖罪」の今日的意義ではないか。 人が生きることは、他の生命の犠牲による。両親の命を削ることによって誕生するのをはじめ、食においては生物の命を頂いている。社会生活では他者の働きによって営まれる、今回の原発事故は都会のエネルギーのため地方がどれほど犠牲になっているかを明らかにした、など等。 その「命の連鎖」に人は生きていることを常に気づかせるのが、聖餐式だ。イエスの命に生かされている私は同時に実に多くの命に生かされていることを、そして、その私も他者のために生きることを決意することが聖餐式を祝うことなのだ。 |
2012年6月17日(日) 年間第11主日 マルコによる福音書4章26節-34節
種は蒔かなければ、芽も花も実もならない。手元に置いておくだけでは、ゴミになるだけ。キリスト者とはイエスの始められた「新しき人生」を選択し追従する者。歩み続けることが大事。もちろん、ストレートには歩めない、鳥に襲われたり、石もあり茨も生えている、つまり十字架の道を歩むしかない。しかも、「からしだね」のような吹けば飛ぶしかないちっちゃい者にもかかわらず、歩み続ければ前方が開かれることを信じる者がキリスト者なのだ。ご周知のように、米国における黒人公民権運動への道が、当時の白人に席を譲ると言う黒人差別に対して席を譲らなかった一黒人のおばちゃんから始まったのはその一例だ。イエスの後、そのおばちゃんの後をついて行きたい。争いのない、公平のな世界へ向かって。 |
2012年6月24日(日) 洗礼者ヨハネの誕生 ルカによる福音書1章57節-66節、80節
洗礼者ヨハネの誕生物語、キリスト教会がイエスの先駆者としての位置づけを意図とする物語であるが、それ以上に、私たちに人とは何かを教えてくれる。 子どもの名はヨハネ、それは、その子が両親や親せきの思いを越えて、神からの使命に生きる者になる、ことを教えている。親は神の意志を見抜き、実現できるように育てることが役割となる。幼児洗礼もそのように見たい。神のご加護をいただくためにではなく、神の思いをその子の人生の課題として受け取るためであることを。 子の人生は一個人の人生ではなく、神の人類救済という壮大な計画の一端を担う夢と希望の人生であることをヨハネの誕生物語は教えているのではないでしょうか。 |
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