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2012年5月6日(日) 復活節第5主日 ヨハネによる福音書15章1-8節
先週に続き、イエスが何であるか例えている。イエスはぶどうの木、クリスチャンは枝、神は農夫である、と。ここに、「つながっている」との言葉が、肯定形否定形合わせて9回出てくる。それは神秘的、精神的な甘ったるい意味、イエス様にひっついていれば幸せ、ではなく、相互の約束することと言っている。なぜなら、つながることは「実を結ぶ」結果になることと言っているから。それは、旧約聖書の律法に従う生き方、即ち、神との契約を念頭においている。(詩編1・2−3「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむひと。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」即ち、イエスの行い、言葉をこそ自分の生き方の模範、指針として契約を交わし、それを実行するならば、イエスが目指した、神の国、つまり、誰もが大切にされる社会に到達するのだ。それを教会は自らを「旅する教会」と定義している。あの世の天国に行くのではない。東日本大震災後、「絆」の大合唱。政府や行政の主導として使われているのが怪しい。本来、人間は、他者の苦しみには無関心ではいられない、率先して関わろうとする。ところが、現代社会は競争社会として、利己主義的となり、無関心ならざるを得ない。イエスはそういう社会を批判している。「明日のことを思い煩うな。天の父が備えてくださる。」それは、神様がやってくれる、との意味ではなく。私たちが神の心に従うなら、互いにつながり、思いやるなら、幸いになる、の意味だ。イエスにつながり、イエスの思いを行おう。 |
2012年5月13(日) 復活節第6主日 ヨハネによる福音書15章9-17節
人は生きて行くために誰か、何かに頼らざるを得ない。そうでなければ、生きては行けない。たとえば、子どもは親、か大人に世話してもらしかない。けれど、親は子どもの成長のためには少しずつ手を引っ込めて行き、やがては、手を出さなくなる。もちろん、そんなに上手くは行かず、付かず離れず、適度な距離を保って親子は付き合って行くしかないのだが。 私たちとイエスの関係もそうだ。神様、神様と何でもかんでも祈れば、神様がやってくれる、のであれば人は何にもしないですむし、成長しない。イエスは都合の良い自動販売機ではない。むしろ、生きることは難題続き、自分で乗り切るしかない。しかし、そのとき、一言、ちょっとしたヒントがあればどうだろうか。イエスはそれなのだ。スーパーマンみたいに、苦境に飛び込んで来て助けてくれるのではない。脱出できる方向、進路を示す。「互いに愛せよ」も天国へ行くための手段ではなく、苦難の人生をどう生きるかのヒントなのだ。ヒントをもらって生きるのは自分でしかない。「実を結ぶ」とはそのことだ。 |
2009年5月20日(日) 主の昇天 マルコによる福音書16章15-20節
イエスの生涯は、苦難を負った人々の友としてあった。従って、人の上に立ち、支配し治める者として崇め奉られるのを拒否するのではないか。ならば、「主の昇天」と言う、イエスがキリストとして神の右の座に着き、全世界の王となったと宣言する教会の信仰は再考されるべきではないか。たぶん、ローマ帝国の国教となったことから作られたのではないか。日本の政治家を見ても国民、なかでも、弱く貧しい人々には無関心だ。一般人も自分の生活に汲々だ。そういう、利己的な私たちにイエスは回心するよう招いているのではないか。だからこそ、従うべき方は貧しく生きたそのイエスである、との意味が「主の昇天」ではないか。 |
2012年5月27日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネによる福音書15章26節-27節,16章12節-15節
聖霊はご存知のように、「息」「風」と同じ言葉から翻訳された。創世記1、1の水の面を動いていた「神の霊」も同じ。ここでは「激しい風」とも訳されると言う。聖書の世界では激しいもの、力が「神」を意味した。その激しい風ははことばとして混沌に働きかけ、光と闇を分け、水を分けた。即ち、(以上は、太田道子『ことばは力1』から)未分離なものを分けることにより、何であるか「分かる」ようにしたのだ。 人を動かすもの、突き立てるものは何か。「分かる」ことではないか。合点したとき、人は行動する。イエスは神の言葉に命を懸けた、なぜか、分かったから、「真理」あることを。弟子たちも思索に思索を重ね、イエスが何者であるか合点した、彼こそ、命を懸けてついて行くに値する人であることを。まさに、弟子たちに激しい風が吹いたのであった。私たちもイエスを追求しよう。そうすれば、激しい風が当たるだろう。 |
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