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2012年4月1日(日) 受難の主日 エルサレム入城の記念の福音から マルコによる福音書11章1節-10節
イエスのエルサレム入城。イエス自身も、彼に出会い救われた人々も、エルサレムで身に降りかかる禍いを予想したにもかかわらず、入城したことに驚かざるを得ない。人は災難、危害から身を避けることを第一とするから。しかし、他者の苦しみを前にしたとき、何かしたくなることもある。自分の子が苦しんでいる時、我が身に代えたいと思うのではないか。イエスはそうだったのではないか。ガリラヤの民衆の飢え、病気、貧困の原因がエルサレムの支配者階級にあると考えるならば、改めるよう叫ばずにはいられなかったのだろう。たとえ、それが自分の命を失うこととなっても。 私たちはイエスの後に従い、不正・暴力・差別に対し声を上げよう。もちろん、自らを糺して。 |
2012年4月5日(木) 聖木曜日 主の晩餐 ヨハネによる福音書13章1節-15節
ヨハネ福音書ではイエス・キリストが父である神から父の栄光を表すため遣わされた方と考える。父の栄光とは父を信じる者が永遠の命を得る、こと。イエスが表した栄光は「十字架に至る生涯」、「十字架死」、「弟子の洗足」の姿をとっている。そして、イエスは弟子たちに「互いに足を洗い合え」と命じている。イエスに呼ばれた私たちにもイエスは呼びかける。「互いに愛し合え」と。主の晩餐はそれを象徴とするもの。「晩餐」を祝う毎に、その呼びかけに応えたい。 |
2012年4月6日(金) 聖金曜日 主の受難 ヨハネによる福音書18章1節-19章42節
原始キリスト教団が「人の罪を贖う死」と解し、現代にまで至るまでそう信じられているイエスの十字架刑死が、実は、四福音書の受難物語にはピラトがイエスを「ユダヤの王」として、即ち、ローマ帝国への反乱ゆえに処刑したと書かれている。大祭司カイアファが言うように「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合」だから、ユダヤ人支配者たちはローマ帝国との平和的関係を第一とするので、何かと一発触発に陥りやすい過ぎ越し祭を無事に乗り切るため、たまたま、民衆の支持を得ていたイエスをスケープゴートにしたのだった。こうしてユダヤ人支配者とローマの政治的判断によってイエスは処刑されたのだ。しかし、イエスの生涯は強烈な思い出を残した。飢えた人、病む人、暴力を受けた人にはイエスの共に生きたことが救いとなった。 キリスト者はイエスを処刑した権力に従うのではなく、このイエスにこそついて行くことを選んだ。今、原発をはじめ命を粗末にする力に抗して生きることがキリスト者に求められる。 |
2012年4月8日(日) 復活の主日 日中のミサ ヨハネによる福音書20章1-9節
福音書のイエスの復活ストーリーは「神が死からイエスを立ち上がらせた」との原始キリスト教団の信仰告白を物語化したものだ。それ故、実際何があったかを詮索することは空しい。しかし、確かに、イエスの死後、逃げて行った弟子たち、ペテロやパウロが再び集まり、地の果てまで死を賭してイエスを救い主キリストと宣教して行った大転換があった。その原動力として「イエスは復活した」とする復活物語が構成されたのだ。 では、2000年後の現代に生きる私たちにとって「イエスの復活」は何を意味するのか。「継続」「継がれて行く」と言うことではないか。イエスは「真理」、「光」として生きた。それは、周りの飢えた人、病む人、差別される人、暴力を受ける人を見るたびに心が痛み、何とかしたい、飢え、悲しみ、苦しみを取り除けたい、そして、満たされ、笑い、生きがいを取り戻したいと願い、実行して行ったのだ。その彼に接した人々は命を取り戻し、生きる喜びを得られた。しかしながら、この世の権力者・支配者たちはそのイエスを政治犯として殺害した。イエスに出会い、救われた人々はイエスに人生の「真理」「光」を見出し、それが絶えてはいけないこと、続けられることこそが救われた自分たちの使命だと確信したことを「復活」と呼んだのだ。それは、今日の私たちにも当てはまる、周りにはイエスの時代と同じく苦しみ悲しむ命を奪われる人が満ち溢れている。目にする度、心が痛む。であるなら、イエスの後を継いで行くことが、イエスと出会い、目覚めさせられた私たちの人生ではないだろうか。復活祭を祝う、それは、その使命の再確認なのだ。 |
2012年4月15日(日) 復活節第2主日 ヨハネによる福音書20章19-31節
恐怖と罪責に沈み込んでいたあの弟子たちを立ち上がらせたのは、一体何だったのか。福音書はそれをイエスの「復活」として描いている。復活したイエスが死に体の弟子に息を吹き込んだ。そして、彼らを宣教に遣わした、と。 現代、実に多くの人々が押しつぶされて生きづらくさせられている。何がそれらの人々を立ち上がらせることができるのだろうか。キリスト教会は「復活」に代わる言葉、行いを探さなければならない。人々を勇気づけ、希望を見出し、立ち上がる「言葉」を。でなければ、意味がなくなるだろう。 |
2012年4月22日(日) 復活節第3主日 ルカによる福音書24章35-48節
福音書の「復活物語」は、原始キリスト教団が如何にして、イエスの生涯の意味を見出して行ったか、を教えている。 彼らは、まず、生前のイエスの言葉と行いを思い出し、次に、旧約聖書を参考にし、意味を考えた。そして、イエスが今、生きているなら、何を自分たちに要求しているのかを思索したのだ。 ガリラヤの苦難にある人々と共に生きたイエス、まさに、どん底にある弟子たちをも見捨てないとの発見、それどころか、イエスの思い、志を忘却するのではなく、伝え続けること、苦難の人々と共に生きて行くことを自分たちに託された、と思い至ったのだ。 2000年後に生きるキリスト者の私たちはこの弟子らと同じく、イエスが目指したことを自分の目標として生きることが「復活のイエス」に出会ったことなのだ。 |
2012年4月29日(日) 復活節第4主日 ヨハネによる福音書10章11-18節
福音書はイエスが一体何者であるかを、多様に語っている。今日の箇所には「私は羊の門、良い羊飼いである。」と象徴している。それは生前のイエスの振る舞を、旧約聖書に使われている民の指導者としての「羊飼い」と理解したのだった。」特に、エゼキエル書や福音書の「よき羊飼い」は見失った羊を捜す者、弱った者を強め、豊かな牧草地に導く者と描かれている。これは、ヨハネ福音書がイエスを「言葉」、「律法」と呼ぶことの言い換え、と言える。人生の指針、社会の方向性を喪失、あるいは、誤った道を進む我々に真理の道、正義と公平の道への「言葉」がイエスである、との宣言だ。道に迷ったとき、躓いた時、戻れる場、立ち止まる場としてイエスを与えられたことを喜ぼう。そして、勇気をもって再出発しよう。 |
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