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2012年3月4日(日) 四旬節第2主日 マルコによる福音書9章2節-10節
「主の変容」の物語は何を意味しているのか。神の子の力を誇示しているのか。であれば、イエスの十字架刑死は茶番と言わざるを得ない。むしろ、神として崇め奉ることを批判しているのだ。そもそも、神を神殿に鎮座させて礼拝し、拝むことは旧約聖書にはない。なぜなら、人と歩む、移動する「インマヌエル」だから。人が神と契約するのは、礼拝ではなく、み言葉、法、掟を守り行うことだ。だから、イエスはペテロの仮小屋を作りましょう、との言葉に聞く耳を持たず、神からの言葉を告げている。「これに聞け」と。私たちにも同じ言葉が呼び掛けられる。「行って、隣り人」になれと。 |
2012年3月11日(日) 四旬節第3主日 ヨハネによる福音書2章13節-25節
東日本大震災から一年たった。復興の道は始まったばかりだ。今なお、34万余の多数の人々が避難生活を余儀なくされている。被害に遭わなかった私たちの出来ることは、彼・彼女らの再建の道を後押しすることだ。カトリック教会でも追悼ミサを行うけれど、それは、祈って終わりではなく、神の前で、具体的に動くことを考え、神と約束を新たにするものでなければならない。まさに、神殿で生贄を捧げるのではなく神の呼びかけが何であるかを聴き従うこととなる。神殿は滅びるけれど神の言葉、イエスの言葉は永遠に私たちを招いている。「あなたはどこにいて、何をしているのか」と。 |
2012年3月18日(日) 四旬節第4主日 ヨハネによる福音書3章14節-21節
先日、津波によって7人の両親姉妹を亡くした高校三年生の娘さんのことを放送していた。神はいるのか。キリスト教会が信じる「全知全能の神」とは何か。世界にはそんな疑問を持たせる悲惨な出来事が山ほどある。かって、第一、二次世界大戦を経たヨーロッパで「神は死んだ」との神学が生まれたことはうなずける。 しかし、マルコ福音書には既に、神の無力、不在、すなわち、イエスの十字架刑死を描いている。もちろん、他の福音書には逆に、十字架刑死を美化、栄光化しているから、当初から、神について議論が多数あったのだろう。 津波ですべてを失い、いっぺんに一人ぼっちになった彼女を一年後再出発するまで、支え続けたのは何だったのだろう。身を寄せたおばさん家族をはじめ周りの友人、知人であっただろうと推測するしかない。あの中風を患った人の四人の友人であったのだろう。 神とは人の支え合う、そのことを言うのだろう。イエスはその中にいた一人であった。けれど、その支え合いを拒否するものがある。利己主義と言われるものが。 神を信じる私たちキリスト者にとって、支え合いの輪に加わることが、信じることの意味になるのだ。 |
2012年3月25日(日) 四旬節第5主日 ヨハネによる福音書12章20節-33節
イエスの十字架刑死は不思議だ。ローマ帝国による政治犯としての処刑にも関わらず、直弟子たちは「贖罪死」と考え。パウロは「信仰による救い」と捉え、生涯を賭けて宣教し、現代にいたるまで多くのキリスト者を生み続けている。本当に多くの実を結んでいる。 何故だろうか。死そのものは無惨だ。けれど、その死までも引き受けざるを得ないイエスの生き様そのものが人々に強烈なインパクトを与えたのではないか。私たちも信仰を続けるなら、イエスの生とその証人の生を見極め、自分も倣うようにしたい。 |
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