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2012年2月5日(日) 年間第5主日 マルコによる福音書1章29節-39節
イエスは私たちを「福音において生きよ」即ち、神の御言葉に従って生きよ、と招かれる。神の御言葉とは、「人は神の前では絶対に自由、平等である」ことに導くもの。イエスがガリラヤの会堂での安息日に、悪霊に取りつかれた人を癒したことは、その言葉に応えたのだ。病気や貧困は、人を自由にし、平等にはさせない。その人の当たり前の生活を困難にさせる。健康で恵まれた人は、それらの人々が当たり前に生きられるよう手助けするよう招かれている。それが、御言葉に従って生きる、つまり、福音において生きることなのだ。 |
2012年2月12日(日) 年間第6主日 マルコによる福音書1章40節-45節
イエスのもとには町中から病人や悪霊つきの者を人々が連れてきた、とある。(マルコ1・32、2・3他)みんな自分の身内や近所の人の病人を案じて、噂を聞きつけてイエスの所に藁にも縋る思いで連れて来るのだろう。しかし、らい病の人は違った。誰も彼を連れて行く人はいなかったのだ。なぜなら、らい病人との接触は固く禁じられていたから。それを破れば厳しく罰せられるので、誰もらい病人を助けようとはしなかった。そんな社会のあり方、不当に扱われることにらい病人は激しい憤りを持っていたのだろう。彼は決死でイエスのところへ来た。 らい病人はイエスに言う。「お前もみんなと同じように、世間を気にして汚れた者と見て扱うのか。それとも、お前はお前自身はどう判断するのか」と。 現代の社会もハンディのある人々を低く見、不当に扱っている、就職や賃金、結婚、等で。それらの人々がキリスト者に問うているのだ。「お前も世間と一緒か」と。私たちはどう答えられるだろうか。 イエスが目指す「神の国」は「誰もが大切にされるところ」、即ち、人はみな公正に扱われなければならない、と言うこと。従って、イエスはらい病者を正当に扱われる、大切にするのだ。世間とは違うのだ。しかし、この決断は、社会からは許されない、糾弾され、命を奪われることになる。イエスもまた決死なのだ。 人との関わりは命がけとなる。 そのイエスに私たちは倣う者となるのだ。 |
2012年2月19日(日) 年間第7主日 マルコによる福音書2章1節-12節
日本社会では一度、失格の烙印を押されると立ち上がることは難しい。病者や失業者、犯罪者に対して、就職先は狭く、周囲の理解もすくない。あのヨブのように自分の不運を嘆くしかない。 中風の人は病気を嘆き恨みながら社会や家の隅で生きていた。けれど、彼にはその苦しみを訴えられる友だちがいた。友だちは見舞いに来るたびにその嘆きを聞いた。だから、彼らはその病の友人をイエスのもとへ何が何でも連れて来たのだ。その四人の友人と病人の必死さはイエスの心を動かした。病人に生きる希望を失わせている社会に向かって、病者が立ち上がって前に進めるようにしようじゃないか。そういう、社会にして行こうと叫ばれたのだ。 聖書を書いたヘブライの民は、元々、奴隷などの最底辺の人々であった。彼らはそこにとどまることをよしとせず、誰もが大切にされる社会、つまり「神の国」を造ろうとした。神のことば、掟とはそれを目指す「足の灯火、道の光り」なのだ。その教えに生きていた四人の友人、イエスは病人の苦しみを見捨ててはおれなかった。動いたのであった。 教会の目指すところも同じだ。天国ではない。誰もが公平に生きられる世界だ。病人や四人と同じく動こう。 |
2012年2月26日(日) 四旬節第1主日 マルコによる福音書1章12節-15節
今日の箇所は、イエスの生涯を短くまとめている。即ち、荒野である現世を神の言葉を唯一として従って生きられた。神の言葉はイエスが野獣とあるこの世の死の勢力に屈せず、人生を全うさせた、と。 私たちはイエスに倣い、神の言葉に応えた人生を歩きたいと、キリスト教の洗礼を受けた。今日まで荒野を野獣に負けず生きて来られたことを感謝する。そして、今、頼るものなく道に迷っている人をイエスと出会わせることがキリスト者の使命として生きることをその感謝のお礼にしたい。 |
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