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2012年1月1日(木) 神の母聖マリア ルカによる福音書2章16節-21節
羊飼い等は飼い葉桶に布にくるまったイエスを探し当て、神を賛美した。逆説がある、羊飼い等をその疎外、差別状態から当たり前の状態へ導かれる方は、絶対権力者、自ら神の子となのるローマ帝国の皇帝ではなく、見窄らしく、貧しい、自らも差別され排斥され、十字架につけられたイエスであるとの真理が。新しい年の始めに、私たちが従う方、人生の目標とする方は、馬小屋で生まれた方、十字架につけられた方であることを確認し、賛美することは相応しいこと。 |
2012年1月8日(日) 主の公現 マタイによる福音書2章1節-12節
イエスへの三人の博士の来訪は、イエスがユダヤ人だけの王ではなく全世界の王、キリストであることを意味する。 ともあれ、三人の博士の旅に思いを馳せよう。新しい王の誕生を告げる星の導きに従った博士らの旅は困難極まりのないものだったでしょう。明確な目的地や地図のない旅、予想されるだろう危険や恐怖、しかし、彼らはめげず旅だった。なかでも、彼らにとっての一番の試練はこの世の支配者との関係でした。「新しい王はどこにいるのか」つまり、人が真に仕える方はどなたですか。この問いほど支配者が恐れるものはないでしょう。彼らはヘロデ王ではなく、この世からの報償を捨てて、星に従って命を救われたのであった。 私たちの信仰はこの博士らの旅と同じでしょう。イエスが目指した神の国、「誰もが大切にされる世界」にするための旅、それは荒野の旅であり、この世の支配者、利己主義との闘いである。はっきりした道筋、結果はない。あるのは神の言葉と希望、信頼、そして、知恵と勇気。イエスの生涯もそうであった。しかし、闘い半ばで倒れた。私たちはその後を継ぐ者。博士らと旅を続けよう。 |
2012年1月15日(日) 年間第2主日 ヨハネによる福音書1章35節-42節
洗礼者ヨハネは弟子たちにイエスを紹介した。また、イエスの死後、弟子たち、そして、教会は2000年に亘って、イエスを人々に紹介して来た。その歴史は功罪あるが、それでも、アシジのフランシスコ、マザーテレサ、キング牧師、等々は、イエスに従う者としての観方、価値観、生き方を提供し、世界を変えて来た。 私たちはその証を引き継いだ。混迷する現代世界にあって、子供たちにどんなイエスを紹介できるのか。現在の諸問題に向き合い真剣に取り組むことによってのみイエスの魅力を伝えられるのではないか。日常の思い患いに埋没しないようにしたい。 |
2012年1月22日(日) 年間第3主日 マルコによる福音書1章14節-20節
イエスは共に旅する者たちを呼び集められた。苦難の人生を歩む人々に、一緒に、光明を見出そう、と言うのがイエスの呼びかけ。イエスは確信していた、神の言葉に生き方の指針を置くなら、展望が開かれることを。神の言葉は人が社会で生きて行くための基本原則。例えば、私たちの社会には一方で富んだ者がいて、他方、飢え、裸の人がいる。それを見過ごすな、無関心でいるな、みんな平等でなければならない、と言う神の言葉を基本原則とする。神の言葉に従う、つまり、「信仰」とは、それに応えること。即ち、飢え裸の人がいない社会にすることなのだ。容易ではないが希望に満ちたイエスのその旅について行こう。 |
2012年1月29日(日) 年間第4主日 マルコによる福音書1章21節-28節
イエスの教えは権威ある新しい教えだ、と人びとは驚いた。何故なら、言うだけではなく貧者、病者と共に生き、命まで捨てたから。 民主党や野田首相は公約違反ではないと強弁しているが、認めてよいだろうか。自民党に代わり国民目線の政治と約束して政権交代できたにもかかわらず、米国、財界、官僚、目線ではないのか。 1980年代、教会、修道会は「解放の神学」に学び、貧しい者との連帯を選択したはずが、今や、社会との遊離は激しくなり、社会には有効な発言も行動もしていない。今一度、イエスの姿にもどろう。 |
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